2025年7月に米上院外交委員会の少数党スタッフが公表した報告書「The Price of Retreat: America Cedes Global Leadership to China」は、トランプ政権が再登場した2025年1月以降、アメリカが外交・開発・公共外交・情報戦といった非軍事的領域での関与を急速に縮小し、その空白を中国が制度的に埋めているという構造を記録した文書である。主たる関心は、中国の進出というよりも、アメリカが自ら制度を撤退させた結果、何が可能になったのかという点に置かれている。
報告書には「プロパガンダ」や「偽情報(disinformation)」という語も明示的に登場するが、そこで描かれているのは、偽情報の内容ではなく、それに対抗する制度的基盤がいかに解体されたか、そしてその結果どのような言説の空間が成立したかという過程である。
制度的撤退の規模と範囲
報告書が最も詳しく記録しているのは、アメリカの制度的関与が、地域、機能、時間軸においてどのように縮小されたかである。2025年に入ってから半年のあいだに、以下のような後退が確認されている。
- USAID(米国際開発庁)は解体され、水・衛生、教育、感染症支援など多数の分野で現地事業が打ち切られた。各国の米大使館では、開発担当官ポストの廃止が進められている。
- 国連拠出金は、2025年度予算において90%削減された。UNHCR、UNICEF、WHOなどへの資金供給が停止された。
- 教育・文化交流プログラムでは、Fulbrightをはじめとする交換・留学・英語教育関連の制度が93%削減され、多くの地域で現地パートナーとの契約が解除された。
- USAGM(米グローバルメディア機構)傘下のVoice of AmericaやRadio Free Asiaには資金が供給されず、RFAは54の短波周波数を喪失。広東語、チベット語などの放送が終了した。
- GEC(Global Engagement Center)は、SNS上での批判(特にElon Muskによる検閲フレーム)が政権内で影響力を持ち、閉鎖された。代替組織は設置されていない。
報告書はこれらの制度撤退を、単なる財政削減や組織改革としてではなく、「影響力競争の手段としての制度的撤収」として位置づけている。
空白を埋める動きとその形式
制度が撤退した直後から、空白を埋める動きが生じていることも、報告書は具体的に記録している。
- 中国国際放送(CRI)は、RFAが放棄した周波数のうち80以上を取得し、同じ言語・同じ地域に向けた放送を拡大した。
- ナイジェリアでは、USAIDのWASH支援が終了した数週間後に、中国がUNICEFと連携して類似の事業を開始した。
- ベトナムのFulbright Universityは、資金供給を絶たれた後、中国系教育機関との提携を検討するようになった。
- 各国で米国の奨学金制度が停止された結果、中国の国費留学制度や海外キャンパスが、米国から締め出された学生を積極的に受け入れている。
これらはいずれも、中国が積極的に攻勢をかけてきたというより、アメリカが後退させた制度空間に対して、既存の中国の制度がそのまま代入されたという構造である。報告書はこのプロセスを、各制度の「退場」と「置換」の関係として提示している。
偽情報対策制度の崩壊
報告書は、偽情報対策が制度的にどのように機能しなくなったかについても、明示的に扱っている。
- USAGMの弱体化により、国際放送が実質的に縮小され、RFAが担当していた言語放送の多くが失われた。
- GECの閉鎖は、アメリカが国家レベルで「これは偽情報である」と定義し、それに対抗するための分析・発信・外交的働きかけを行う体制が消失したことを意味する。
報告書は、これにより「プロパガンダをプロパガンダとして認定し、対抗する枠組みそのものが、制度的に存在しなくなった」と記している。米国政府が制度的に語らなくなったことで、語りが競合しない空間が生じている。
最後に
この報告書は、中国の影響力の拡大を暴露する文書ではない。主眼は、アメリカの制度的撤退がどのような空白を生み、その空白がどのように埋められていったかという記録にある。トランプ政権の方針は、それまでアメリカが非軍事的に行っていた影響力行使の多くを停止・縮小するという一貫した政策判断に基づくものであり、報告書はそれを価値判断なしに記述している。
ただし、その政策判断の結果として、情報や価値をめぐる国際的な語りの条件が変化したこと、特定の言説が他と競合することなく浸透していく構造が生まれたことが、報告書の記述からは読み取れる。偽情報に関心を持つ立場にとって、本報告書は、制度の後退と語りの変化がどのように連動するかを具体的に検証できる資料となっている。
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