「語らない」ことで偽情報を解体する──『Reclaiming Our Narratives』が描く対抗戦略

「語らない」ことで偽情報を解体する──『Reclaiming Our Narratives』が描く対抗戦略 偽情報対策全般

 偽情報とどう向き合うか。検証、訂正、ファクトチェック──いずれも必要だが、それでは届かない領域がある。とくに、ある種の偽情報は、訂正しようとした瞬間に、信念を強化し、分断を深める構造を持っている。

 それが『Reclaiming Our Narratives』(The Organization for Identity and Cultural Development/OICD, 2025年4月)が対象とするIdentity-Based Disinformation(IBD)である。この文書が提示するのは、こうしたIBDに対して「反論しない」ことで構造を解体し、「語りの環境そのものを入れ替える」戦略だ。


IBD──感情と所属を操る語りの装置

 IBDは、単なる誤情報ではない。それは、誰かを信じさせることよりも、“感情の場”を与えることで所属意識や敵意を動員する装置として設計されている。

 本書ではその構造を、次のような6つの要素に分解して分析する。

  • Trigger(怒り・不安・誇りなど、最初に感情を動かす要素)
  • Narrative(我々 vs 彼ら/被害者意識といった物語構造)
  • Need(安全、尊厳、正義といった心理的欲求)
  • Target(共鳴させたい観客、または攻撃対象)
  • Form(ミーム、記事、映像などの表現形式)
  • Channel(SNS、対面、メディアといった拡散手段)

 このようにIBDは、感情・語り・欲求・拡散の設計図として構成されており、受け手が“信じる”のではなく“属したくなる”よう作られている。だからこそ、事実の提示による訂正は届かない。問題は“誤り”ではなく、“感情と所属の供給”なのだから。


Equal Alternative Narrative──語りを否定しない「対抗」

 『Reclaiming Our Narratives』が提示するのは、IBDの感情的・文化的ニーズを対立を生まないかたちで“満たし直す”ことで機能を奪うという手法である。この語りは、「Equal Alternative Narrative(等価な代替ナラティブ)」と名付けられている。

 ここにあるのは説得ではなく、選択肢の提示である。相手の語りを否定せず、攻撃せず、だが同じ感情の欲求を別の形で包み直す。それによって、IBDが提供していた“感情の依拠先”を不要にしてしまう。

 これは、語られる内容だけでなく、語る“態度”を含めて設計されるナラティブの再構築である。


トロイの木馬事件──語らないことの戦略性

 2014年、イギリス・バーミンガムで発生した「トロイの木馬事件」はIBDの典型だった。「イスラム過激派が学校運営を掌握しようとしている」とする偽の手紙が行政に届き、報道が一斉に広がった。後に文書は捏造と判明するが、教員の処分、地域の不信、宗教的緊張はすでに広がっていた。

 この事件に対して採られた戦略は、IBDを否定しないことだった

  • 「私たちの学校では、安全を守るための仕組みを整えています」
  • 「この週末、地域イベントでたくさんの笑顔が見られました」
  • 「子どもたちに、証拠に基づいて判断する力を育てたい」

 イスラム教にも、手紙の真偽にも触れない。ただ、“誰と共にあるか”“何を信じるか”という感情の居場所を、別のかたちで再提示する。こうした語りは反論ではない。だが、IBDが提供しようとしていた心理的安定を代替することで、敵意の構造そのものを無力化する。


語りの設計図──7ステップの介入手法

 本書では、このような語りを設計するための7ステップが示される。

  1. IBDの分析:どんな感情が動員されているかを構造化する
  2. 対象の文化と価値観を読み解く
  3. 満たすべきニーズの確認と選定
  4. 語る主体とチャネルの設定(誰が、どう語るか)
  5. 語りの形式設計(ストーリー、映像、グラフィック等)
  6. Invisibility Testの適用(反論に見えないか、敵を作らないか)
  7. 影響の評価と共有の調整

 ここで設計されるのは、認知や態度ではなく、社会的・文化的な意味の構成条件である。語る内容だけでなく、「語らなさ」が戦略的に組み込まれる。


語ることを選ぶ力、語らないことを耐える力

 『Reclaiming Our Narratives』は、語りをもって戦うのではなく、語りの生態系を再設計するためのマニュアルである。IBDは、社会的連帯や信頼の回路を“乗っ取る”ようにして機能する。それに対して本書が示すのは、語りそのものを武器にしない語り反論ではなく代替によって相手の土俵を消してしまう方法である。

 これは情報戦ではない。文化と倫理の設計に関わる問いである。何を語るか以上に、何を語らないかを選ぶことが、最も強い対抗となる。本書が描くのは、そのための構造と技法である。

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