2025年5月、フィリピン全土で実施されたバランガイおよびサンギニアン・カバタアン(SK)選挙について、EU選挙監視団(EUEOM)は同年6月に最終報告書を発表した。この報告書は、選挙運営の全体像や制度的課題に加え、偽情報や情報環境の構造的問題にまで踏み込んでおり、ローカル選挙における情報の偏在と政治的影響の実態を詳しく描き出している。
日本ではこうした地域レベルの選挙が国際監視の対象となることは少なく、注目もされにくいが、報告書が示す偽情報の広がりは、地方選挙だからこそ生じるというよりも、制度的な対応力が及びにくい領域であるがゆえに問題が顕在化するという構造的事情を明らかにしている。
バランガイ/SK選挙とは何か
フィリピンのバランガイは、行政上もっとも基礎的な単位にあたる地域共同体であり、町内会に似た機能を持つ。ただしその役割は形式的な自治を超えており、治安・社会福祉・公共事業の実行部隊でもある。SK(Sangguniang Kabataan)はバランガイ内に設置される青年評議会で、18〜24歳の若者が候補者および有権者として参加する。
今回監視団が対象としたのは、この地域社会の中核を担う2つの選挙である。国政レベルとは異なり、候補者と有権者が生活圏で密接に関係し、政治的中立や手続きの公正を確保することがより困難になる。
偽情報の拡散とその形態
報告書では、偽情報の拡散が選挙結果に実質的な影響を与えているとまでは明言されていないが、その構造的蔓延と制度的対応の不在が繰り返し指摘されている。特に注目されるのは以下の3点である。
1. 候補者に関する虚偽情報の氾濫
SNS上では、候補者が過去に刑事事件に関与したとされる偽の画像や、学歴詐称をでっちあげた投稿が拡散されていた。いずれも出所が不明で、削除要求が間に合わないか、対応が不徹底だったとされる。SK選挙では特に、個人の容姿や言動をめぐる人格攻撃が目立ち、候補者の精神的負担につながっていた。
2. 情報の取得チャネルがSNSに一極集中
報告書では、有権者の多くがFacebook、Messenger、TikTokといったプラットフォームを通じて選挙情報を得ていることが記録されている。地方メディアの報道力が限られている中で、こうしたSNSが実質的な情報空間の主導権を握っており、正確な情報が行き渡らないまま、注目度や話題性だけで候補者評価が形成される事例が多数確認された。
たとえば、一部の候補者はTikTok上で「ダンス動画」や「キャッチーな自己紹介」を投稿し、それが選挙運動の中心的手段となっていた。これ自体は合法であるが、政治的意思表明や政策議論の場が可視化されにくくなる構造的問題がある。
3. ファクトチェック制度の限界
フィリピン選挙管理委員会(COMELEC)は、誤情報の是正を目的としたファクトチェック活動を一応は行っていた。しかし、バランガイやSKレベルの選挙においては、人的・技術的資源が大幅に不足しており、偽情報の拡散スピードに追いついていない。報告書でも、「訂正情報は往々にして届く前に忘れられている」と記述されており、制度的対応力の限界が露呈している。
制度の構造と政治参加の歪み
偽情報の問題は単なる技術的脅威ではなく、制度の脆弱性を背景とする構造的課題と密接に結びついている。報告書では、次のような制度的問題も指摘されている。
- 多くのバランガイでは、候補者が無投票当選となるケースがあり、対立候補不在のまま選挙が終了していた。これにより、有権者に選択肢が提示されず、情報の質や量も問われにくくなる。
- 地方行政官(barangay captainなど)が政治的中立を逸脱し、特定候補を後押ししていた事例が報告されている。これにより、偽情報との相乗効果で事実上の情報統制が生じる構造がある。
- 女性や若年層の参加は制度上は保障されているものの、実際には社会的圧力や情報アクセスの偏りにより、その機会が不均等になっている。
評価と示唆
EUEOMの報告書は、ローカル選挙においても偽情報が重大な問題となりうることを示している。ただしその深刻さは、選挙の規模や注目度に起因するものではなく、制度的な対応能力や情報流通構造の脆弱性に起因している。
たとえば、COMELECによるファクトチェック体制は整備されつつあるものの、全国規模の選挙と比べてリソースや影響力に制限があり、地方選挙では十分に機能しなかった。SNSによって個人単位で広がる偽情報に対して、制度側の応答が後手に回り、誤情報が事実として定着してしまう構造が見られた。
このことは、偽情報対策を講じる上で、「どの選挙に注目すべきか」という優先順位の問題ではなく、どの制度がどの範囲に責任を持ち、どの情報環境にアクセスできるかという現実的な対応力の設計が問われているという点を示している。報告書の意義は、選挙制度を対象としながらも、メディア環境、技術的基盤、市民教育といった多層的な問題が絡み合う構造を描き出した点にある。
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