英国政府「Chronic Risks Analysis」が示す偽情報の構造的リスク

英国政府「Chronic Risks Analysis」が示す偽情報の構造的リスク 情報操作

 2025年7月に英国内閣府と政府科学局が共同で公表した『Chronic Risks Analysis』は、これまでの「国家リスク登録(National Risk Register)」が対象としてきた自然災害やテロといった短期的・急性的なリスクに対して、より長期的で構造的な脅威——いわば「社会にじわじわと浸潤し、制度そのものを蝕むような慢性的リスク(chronic risks)」——に焦点を当てた包括的なリスク評価報告書である。

 この報告書では26の慢性的リスクが抽出され、セキュリティ、テクノロジー、地政学、環境、社会、バイオセキュリティ、経済という7つのカテゴリに分類されている。特筆すべきは、「偽情報と誤情報(Disinformation and Misinformation)」が社会カテゴリの中で一項目として独立して扱われており、国家の安定や民主制度、脆弱な集団への影響という観点から明確に「構造的脅威」として位置づけられている点である

 以下では、報告書全体の要点とともに、特に偽情報に関する章の内容を報告書に基づいて丁寧に紹介する。


偽情報は「慢性的リスク」の一部である

 報告書の冒頭では、「慢性的リスク」とは単に発生頻度が低い災害ではなく、時間をかけて社会・経済・制度に持続的な損害を与える、かつ他の急性的リスクのトリガーにもなりうる、複雑に絡み合ったリスク群と定義されている。

 「偽情報と誤情報」はその典型である。以下のように明記されている:

“Disinformation and misinformation pose risks to society, particularly marginalised groups, the economy, and national security. Disinformation campaigns can undermine social cohesion or inflame pre-existing tensions.”

 すなわち、偽情報は公共空間に不信を蔓延させ、社会的分断を加速し、結果的に国家のレジリエンスそのものを損なうものとして捉えられている。


偽情報・誤情報に関する現状分析

 報告書では、偽情報の脅威について以下の点を指摘している。

■ 外国勢力による情報操作

  • 国家が偽情報を使った影響工作(influence operations)を意図的に展開しているとされ、「特定の議題(例:気候変動、移民)」に関して世論を分断する目的を持つ。
  • 2019年の英国総選挙に対する干渉が「ほぼ確実に(almost certainly)」行われたと明記。

■ アルゴリズムと拡散構造の問題

  • ソーシャルメディア上では、正確性よりもエンゲージメント(クリック・共有・コメント)が優先されるため、誤情報が拡散しやすい
  • その結果として、「より信頼できる情報源」への信頼は減少。報告書はニュースへの信頼度が2015年の51%から2023年には33%へと低下したと記録している。

■ AIによる偽情報生成の加速

  • AIの民主化により、ディープフェイクや自動生成テキストが容易に作成されるようになり、「参入障壁(barrier to entry)」が劇的に低下している
  • 偽情報の質・量の双方が急増しており、AIは「拡散装置」としてだけでなく「生成装置」として機能し始めている。

■ 健康・環境分野への影響

  • ワクチンに関する投稿の半数以上に誤情報が含まれていたという調査(2022年)を引用。
  • 誤情報が環境政策や医療・予防政策の正当性を損ない、実行を困難にするという構造的リスクが指摘されている。

誰が影響を受けやすいか

 報告書は、以下のグループを「特に影響を受けやすい層」として明示している。

  • 子ども・高齢者
  • 失業者・低所得層
  • 社会的に周縁化された人々(ethnic minorities, LGBTQ+など)

 こうした人々は、偽情報による不安の増幅、制度不信の強化、社会的孤立の助長といった複数の影響を受けやすい。報告書は、「複数の脆弱性(intersecting vulnerabilities)」が重なることで、社会的回復力がさらに削がれると警告している。


対応策と国家の取組

 英国政府の対応は次のように整理されている:

■ 法的・制度的対応

  • Online Safety Act(オンライン安全法)
    SNSプラットフォームに違法コンテンツの削除を義務づける。国家による偽情報工作にも対応。
  • Foreign Interference Offence(外国干渉罪)
    国家主導の影響工作を処罰対象にする新たな法的枠組み。
  • Defending Democracy Taskforce(民主主義防衛タスクフォース)
    官民横断的に民主制度を偽情報から守る体制。

■ 公共メディアへの支援

  • BBC World Serviceへの資金提供拡大:正確なニュースの国際的供給源としての機能を評価。

■ 社会的レジリエンスの強化

  • メディア・リテラシー教育の推進
    情報源の検証、バイアスの認識、ファクトチェック能力の向上が中長期的課題とされる。

他のリスクとの相互連関

 報告書の特徴は、各リスクが他のリスクとどのように連関するかを「可視化」している点にある。偽情報は特に以下のリスクと連動している:

  • 国家の脅威(State threats):影響工作、選挙干渉
  • AIのリスク(Impacts from AI):生成される偽情報の質と速度
  • テクノロジー支配(Tech monopoly):コンテンツ管理の失敗と責任回避
  • 社会的弱者の脆弱性(Disproportionate impact):心理的・経済的被害
  • 感染症や動物疾病の誤情報:危機対応の遅れや反発の増大

今後の見通し:報告書の示すシナリオ

  • 短期的には、AIの進化に伴う「ディープフェイク民主化」により、選挙や公衆衛生への影響が拡大。
  • 長期的には、制度・専門家・メディアへの信頼の低下が加速し、民主的意思決定の正統性が問われる社会が到来する。
  • 一方で、リテラシー教育や規制強化が成功すれば、情報環境の改善や信頼回復の可能性もあると希望的視点も残している。

総括

 この報告書は、偽情報・情報操作を単なる通信の問題ではなく、国家の安定性を左右する「構造的リスク」として定義し、安全保障、民主主義、社会的弱者、技術的進化との連環の中で位置づけている点で注目に値する。

 偽情報対策を公衆衛生や気候変動対策と並ぶ国家課題と見なすこの視座は、今後のリスク管理戦略や制度設計にも大きな影響を与えることになるだろう。生成AI時代の社会的脆弱性を理解する上でも、本報告書の分析は多くの示唆を与える。

コメント

タイトルとURLをコピーしました