2024年のフランスとアメリカの選挙期間中、オンライン空間では女性や性別マイノリティに対する激しい偽情報とヘイトスピーチが拡散していた。これらは単なる侮辱や中傷ではない。政治的な文脈において戦略的に配置され、候補者の信用を毀損し、参加を妨げることを目的とした「ジェンダー偽情報(gendered disinformation)」である。
本稿では、Centre for Feminist Foreign Policy(CFFP)が発表した報告書『Analysing the Spread of Gendered Disinformation in the Run-Up to the 2024 French and US Elections』を紹介する。この報告書は、選挙干渉と性差別的暴力の接点に切り込み、偽情報がいかにしてジェンダーの文脈で武器化されているかを、多数の事例を通じて実証的に示している。
「性別に基づく偽情報」とは何か
ジェンダー偽情報とは、性別・性的指向・ジェンダーアイデンティティを標的にした偽情報のことを指す。単に誤情報が女性に影響するという意味ではなく、「意図的に女性や性別マイノリティを攻撃する目的で作られた」情報であることが特徴だ。
このような偽情報は、以下の2つのレベルで害を及ぼすとされる:
- 個人レベル:女性政治家やトランスの公人を性的に中傷する、または暴力の脅迫を加える。
- 構造レベル:リプロダクティブ・ライツやLGBTQI*の権利などの政策課題を「社会秩序への脅威」として描き出し、制度的進歩を妨害する。
この現象は決して新しいものではないが、近年はSNSアルゴリズムや生成AIの発達により、拡散スピードと影響範囲が格段に増大している。特にディープフェイクやBotネットによる自動化された攻撃は、対応を困難にしている。
フランス:Telegram上で組織化されたジェンダー攻撃
2024年のフランス議会選挙に関するケーススタディでは、主にTelegramを起点とした情報の流通が分析されている。極右、陰謀論、親クレムリンの計400以上のチャネルから、性差別的な投稿をキーワードで抽出・分類した結果、次のような特徴的な言説が見られた。
性的中傷と暗殺予告の正常化:Réseau Libre
報告書の中で最も衝撃的なのは、「Réseau Libre」と呼ばれるTelegramチャンネルの事例である。このチャンネルは選挙期間中、サンドリーヌ・ルソー(緑の党)をはじめとした女性政治家に対し、性的暴力を奨励する投稿を繰り返していた。例えば、「性的教育のためにルソーに性加害者を送り込むべきだ」といった発言や、「木と性交するのが好きな精神異常者」という人格否定が含まれる。
選挙後には、180名の政治家・ジャーナリストの暗殺を呼びかける投稿を行い、フランス政府によって即時閉鎖された。このチャンネルはロシア在住のフランス人が運営していたとされ、国外からの干渉の側面も疑われている。
コード化された攻撃:「sardine」戦術
また、ルソーに対する嫌がらせは「sardine(イワシ)」という蔑称によってSNS上で反復されていた。これは、XやInstagram上のパロディアカウントが広めたもので、当人の公式アカウントと同等のフォロワー数を有していた。投稿は性的暴力や精神障害を連想させる侮辱を含みつつ、言語的にはプラットフォームの規約違反を回避するよう巧妙に「婉曲化」されていた。
人種差別・トランスフォビアとの結合
Rima Hassan(パレスチナ系MEP)やSarah El Haïry(アラブ系の同性カップルの母親)など、移民系や性的マイノリティである女性に対しては、「異物」「白人絶滅計画」といったナラティブが繰り返されていた。また、トランスジェンダーを精神疾患と結びつける言説が、ペルー政府の政策を歪曲する形で拡散されていた。
アメリカ:「健康」コンテンツに潜むミソジニーとトランスフォビア
米国大統領選では、Manosphere(男らしさを重視するオンラインコミュニティ)や白人至上主義インフルエンサーによる偽情報が顕著だったが、それに加えて特筆すべきはウェルネス系インフルエンサーの役割である。
「あなたの身体は私のもの」──スローガンの逆利用
2024年11月6日、Nick FuentesがXで「Your body, my choice」と投稿。これは「My body, my choice(自己決定権)」というフェミニズムのスローガンを反転させたものであり、以後3日間に10万件以上の投稿で繰り返された。
このフレーズはSNS上だけでなく、米国の学校現場でも生徒が女子生徒に向かって唱和するという形で現実の嫌がらせにもつながった。
「Repeal the 19th」運動の再燃
女性参政権を保証するアメリカ合衆国憲法修正第19条の撤廃を訴える投稿が、10月22日を中心にX上でバズ化。主要な拡散源は、90万人以上のフォロワーを持つ右派系インフルエンサーのアカウントであった。投稿内容は「中絶支持派は売女」といった、露骨な性差別を含んでいる。
栄養・健康情報の皮をかぶったトランスヘイト
健康・ライフスタイル系インフルエンサーによる投稿では、次のような特徴が確認された:
- トランスの保健当局者Rachel LevineとRFK Jr.の身体を比較し、「どちらが健康的か」と暗に嘲笑。
- 「水道水に含まれるホルモンが子供をゲイにしている」といった、陰謀論的かつトランスフォビア的な主張。
- Pastel QAnonと呼ばれる、かわいらしいビジュアルにヘイトを包み込む戦術の使用。
政策提言:技術だけでは止められない
報告書は、DSA(デジタルサービス法)の適切な執行や、性別別に分解されたデータ提供の義務化、プラットフォームによる透明性強化を提案している。
だが、最も重要なのは、これらのジェンダー偽情報が構造的な抑圧装置として機能しているという理解である。単発の投稿が違法か否かではなく、複数の投稿が積み重なって「公共空間からの排除」を実現するという累積的被害の視点が求められている。
結語:見えにくい暴力を「構造」として捉える
ジェンダー偽情報は、民主主義にとって深刻な脅威である。女性や性別マイノリティが公的な発言をすれば即座に人格攻撃の対象となる。その状態が常態化すれば、「語るべきではない」「立候補すべきではない」という社会的抑圧が完成する。
この報告書は、そうした抑圧が単なる言論ではなく、戦略的に構成された情報戦であることを明示している。そしてその背景には、性別だけでなく、階級、人種、宗教、政治信条といった他の軸とも交差しながら進行する多層的暴力がある。
偽情報研究において、ジェンダーは「副次的関心事」ではない。本報告書はその事実を突きつけている。
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