2025年6月、Human Rights Watchが公開した報告書『“They’re Ruining People’s Lives”』は、米国で進行するトランスジェンダー・ユースへのジェンダー・アファーミング・ケア禁止の立法と、それがもたらす被害の構造を記録した調査である。調査対象は19州、証言者51名。法制度、医療、家庭、教育、地域社会、メディア、監視技術といった複数の領域をまたいで、社会構造全体が変化する過程が描かれている。
この報告書は偽情報を主題にしていない。だがその構成は、一部の事実の象徴化によって制度が形成され、その制度が生活を変形させ、社会に沈黙をもたらすという偽情報の典型的な帰結構造を記録している。語られた情報が、いかに法を作り、情報を取り締まり、語りそのものを不可能にしていくのか。そのプロセスが、被害者の声と制度文書の両方から多層的に描かれている。
「手術を受けさせられている子どもたち」──制度の象徴化言説
この報告書で何度も言及されるのは、「トランスジェンダーの子どもが衝動的に手術を受けさせられている」という言説である。これは2021年以降の複数の州法の導入根拠として用いられ、トランプ大統領をはじめとする政治家によって繰り返し語られた。
しかし報告書は、これが実態と乖離していることを明確に示している。たとえば:
- 2019年に性別肯定的手術を受けた15〜17歳の若者は、人口10万人あたりわずか2.1人。ほとんどが複数年の心理評価と親の同意を経ている。
- 同年に乳房縮小術を受けた18歳未満の症例の97%は、トランスではない少年に対するものである。
それでも「トランスの子どもが手術を受けている」という言説は、象徴的に強い印象を残し、制度正当化の核になった。報告書はこれを、「事実ではない」とは断言しない。ただし、「制度設計の中心に据えるに足るような頻度や因果構造ではない」とし、政治的象徴としての過剰な利用に警鐘を鳴らしている。
立法は制度と生活をどう変えたか
報告書が記録するのは、語りが法律に変わったときの具体的な帰結である。2021年以降、トランス医療への制限は25州に拡大し、さまざまな形で医療と生活の基盤を崩壊させた。
たとえば:
- 医師がホルモン療法を提供した場合、医師免許が停止され、場合によっては刑事責任を問われる。
- トランスの子どもに治療を受けさせた保護者が「児童虐待」とされ、通報・調査の対象となる。
- 医療提供者が紹介状や診療記録を提供すること自体が「違法な援助」とみなされる場合がある。
こうした制度変更により、医療機関は撤退を始め、当事者は遠方の州に移動しなければならなくなった。報告書には、500マイルを運転して医療を受けに行く少年や、学校を変え、家族の住所を秘匿する少女の証言が記録されている。
医療制度を巻き込む副作用
医療規制はトランス当事者だけに影響しているわけではない。報告書は、制度変更によって地域全体の医療制度が崩壊しつつあることも記録している。
ある医療提供者は、ホルモン療法を理由に医療ネットワークから排除された結果、小児科や精神科医療まで含めた広範な連携が機能しなくなったと証言する。トランス医療への反対が、現場では医療全体へのリスク回避的撤退に転化している。
また、制度が医療専門職に「嘘をつくか、診療をやめるか」の選択を迫っている実態も描かれる。ある医師は、継続的に診ていた若者への処方を中止し、「申し訳ない」と言って患者を帰したという。制度によって、医療倫理が制度と対立する場面が制度的に作り出されている。
沈黙を強いる制度と社会の変化
報告書が強調するのは、制度的抑圧が言論空間に及ぼす影響である。支援団体は解散し、活動家は殺害予告を受け、家族は自衛のために沈黙する。
ある父親は、「娘がトランスであると誰かに知られたときの想定問答」を紙に書いて練習していると語った。別の家族は、「Facebookでの言葉一つが通報対象になる」として、治療後も一切の記録を残さないようにしている。学校での自認も避けるよう、子ども自身が自分の振る舞いを「調整」するようになっていった。
こうした社会状況は、制度的に「禁止」されていないことでも、社会的リスクの高まりによって事実上の禁止状態に追い込まれていることを示している。
情報インフラが監視と規制の装置になる
制度の執行には、デジタル監視技術が積極的に使われている。報告書によれば:
- 州の司法当局がFacebookメッセージを捜査し、医療計画や通院情報を抽出
- スマートフォンの位置情報(ジオフェンス)から、誰が診療所に訪れたかを特定
- HIE(Health Information Exchange)により、他州で受けた医療が「追跡」される
つまり、医療の記録そのものが監視対象になり、当事者を刑事的リスクにさらす構造が生まれている。これは情報技術の運用が、単なる執行補助ではなく、「制度的沈黙装置」として作動していることを意味する。
報道の不在と可視性の危険性
報告書はまた、メディアの構造的な「偏り」にも注目している。Media Mattersの調査によれば、2023年の米国ケーブルニュースの反トランス立法報道のうち、約60%がトランス当事者の声を一切取り上げていなかった。
同時に、SNSではLibs of TikTokなどの反トランスアカウントが、個人の動画を文脈を外して拡散し、怒りや恐怖の感情を煽るかたちで制度への圧力を高めていった。報告書はこの構造を、「医療情報の可視性が、当事者にとっては危険性になる」状況と捉えている。
偽情報というより、「制度になった語り」の記録として
この報告書は、虚偽のデマが広がったことを立証しようとしているわけではない。だが、明らかにそこには、事実の選別と反復によって構成された制度的語りの力学がある。
事実の一部を繰り返すことで、他の事実が見えなくなる。例外的な出来事が、制度の前提になるほどの説得力を持つ。それを支えたのは、選ばれた言葉、削がれた文脈、象徴化された不安であり、その結果が制度の成立、医療の崩壊、支援の萎縮、そして語りの沈黙であった。
HRWのこの報告書は、偽情報が制度を動かすプロセスの帰結として、社会がどのように変質するかを記録した文書である。制度、社会、技術、言論、それぞれの層がどのように結びついて機能不全をもたらすのか。偽情報研究にとって、分析対象の核心がここにある。
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