2024年は、72か国・37億人が投票する史上最大規模の「選挙の年」となった。だが、その光景は祝祭とは程遠く、各地で民主主義の不安定性が顕在化した年でもあった。とりわけ注目されたのが、ディープフェイクやAI画像生成技術の進展とそれによる「視覚的偽情報(visual misinformation)」の拡散である。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の研究者ニック・アンステッドとバルト・カマーツが実施した本報告書『Visual Misinformation and Election Campaigns: A Four-Country Comparison』(2025年6月)は、英米仏ベルギーの選挙キャンペーンを対象に、SNS上で流通した視覚的偽情報の実態を体系的に分析したものである。報告書は、量的データの比較にとどまらず、発信主体の性質、信憑性の評価、イデオロギー別の表現スタイル、そして民主主義制度への含意を精緻に論じており、専門家にとって示唆に富む分析枠組みを提供している。
調査方法──ダミーアカウントを用いたSNS実験
本調査では、Facebook、Instagram、TikTok、X、そして米国限定でTruth Socialにおいて、右派系・左派系の影響力あるアカウントをそれぞれフォローするダミーアカウントを作成し、アルゴリズムが提示する情報を定期的に収集した。調査対象となったのは、ベルギー(n=24)、フランス(n=76)、英国(n=161)、米国(n=142)で、収集された合計402件の視覚的偽情報について、人手によるコーディング分析が行われている。
プラットフォーム別ではXが最多(n=135)で、続いてFacebook、Instagram、TikTokと続く。右派アカウントから収集された偽情報は全体の74%を占めており、明確な偏りが観測された。
国家間の違い──政党中心型と分散ネットワーク型
分析の中でまず目を引くのは、視覚的偽情報の「出所」の違いである。フランスでは約70%、ベルギーでも45%が政党や候補者の公式アカウントからの発信だったのに対し、英国ではわずか20%、米国では9%にとどまっている。英米では、匿名アカウント、活動家、あるいはボットのような非公式ネットワークが視覚的偽情報の主要な担い手となっており、選挙コミュニケーションが政党主導で完結する仏語圏とは対照的である。
これは単なる文化的差異ではなく、制度的・メディア的構造の違いを反映していると考えられる。フランスでは候補者・政党によるメディア操作が中心だが、英米では草の根的な活動家ネットワークが、しばしば党本部の意向とは無関係に攻撃的・美学的なコンテンツを拡散している。
偽情報のタイプと信憑性──“信じられなくても機能する”
2024年の選挙を巡って、ディープフェイクやAI生成画像への懸念が喧伝されたが、実際には「信憑性が高い」偽情報は全体の25%にとどまっていた。逆に「信憑性がない(即座に見抜ける)」と判断されたものが60%を占めている。
特に英国では、AIによる視覚的偽情報の大半が極めて稚拙な編集であり、むしろ風刺や模倣としての機能に重きが置かれていた。一方、米国ではAI生成物の69%が「信憑性あり」と判断されており、例外的に高いリアリズムが確認されている。
だが、本報告書が最も強調するのは、視覚的偽情報が「信じられるかどうか」に関係なく、政治的ネットワーク形成や社会的アイデンティティ構築に寄与するという点である。たとえ荒唐無稽であっても、「強いリーダー」や「民族的美学」といったメッセージを象徴的に伝えるビジュアルは、共鳴を生み、拡散され、共感を集める。
左右で異なる表現スタイル──風刺vs扇動
政党や陣営による偽情報の傾向にも、明確な違いが観測された。左派系アカウントから収集された偽情報の65%は風刺やミームを通じたものだったのに対し、右派系では「攻撃」「中傷」「排外主義」が顕著であった。
たとえば、英国では「ナイジェル・ファラージがMinecraftをプレイする(※スナク首相の家をTNTで爆破)」というディープフェイク動画が左派系ミームとして拡散された。他方、ベルギーやフランスではイスラム系住民の存在を「脅威」として描くフォトモンタージュが複数確認されている。
この違いは、法的・制度的な対応にも直結する。風刺と偽情報の境界は曖昧であり、プラットフォームや規制当局にとって判断が極めて困難な領域である。
政治的テーマ──“敵”への攻撃が主目的
視覚的偽情報の内容は、概ね「政治的敵対者」への攻撃に集中していた。批判(23%)、嘲笑(21%)、中傷(12%)が三大ジャンルとなっており、特に右派系では移民・イスラム系住民への差別的表象(14%)が多く確認される。米国では「選挙不正」に関するコンテンツも一定数確認されており、2020年以降の陰謀論的潮流を反映している。
視覚的偽情報の“美学”──制度的対応の限界
本報告書が導く最大の示唆は、「視覚的偽情報とは、信じさせるためだけでなく、つながるために存在する」という点である。それはポピュリスト的連帯、美学、そしてネットワーク形成の手段であり、リアリズムの有無とは無関係に、制度的安定を脅かす。
加えて、風刺、ユーモア、ミーム文化との接点を持つことで、制度的・法的対応が困難になる。コンテンツが不正確であっても、「冗談」として免責される構造が既に成立している。
まとめ──2024年以降の民主主義とプラットフォームの責任
結果的に、2024年の選挙では、予想されたほどの「ディープフェイクによる大混乱」は発生しなかった。だが、米国でトランプが再選されたという事実が、プラットフォーム各社のファクトチェック機能の縮小や規制放棄につながっているとされ、今後の視覚的偽情報の流通環境には一層の懸念が広がる。
視覚的偽情報は、単なる誤情報ではなく、社会的・政治的ネットワークの構築素材である。表層のリアリズムに惑わされず、背後にある構造的機能と制度的対応の限界を認識することが、今後の分析と政策形成に不可欠となるだろう。
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