欧州連合の中でも、マルタは中絶に関して特異な立ち位置にある。2025年5月に公開されたMedDMO(Mediterranean Digital Media Observatory)による報告書「When Lack of Access to Information Fuels Fear」は、この国で中絶をめぐってどのような偽情報・誤情報が生成され、拡散されているのかを、制度・文化・社会的事例の観点から分析している。特筆すべきは、偽情報が単なるSNS上の噂話にとどまらず、国家の制度設計や医学教育、専門家の認知にまで根を下ろしている点である。
中絶が「違法」であることの意味
マルタでは2023年に法改正がなされるまで、中絶は例外なく全面禁止されていた。現在は、妊婦の生命が明確に危機に瀕している場合に限り、三名の医師による承認の下で中絶が認められるようになった。しかし、レポートでインタビューされた産婦人科医イザベル・スタビレが「今も極端に厳しい」と指摘するように、依然としてヨーロッパ最も制限的な制度である。
この制度が直接的に生むのは、中絶に関する情報の流通遮断である。例えば、「中絶に関する情報提供は違法である」という誤認は医療現場に広く浸透しており、医師自身が患者に正しい情報を提供することをためらう傾向がある。さらに「中絶予定者は通報義務の対象になる」といった曖昧な理解も存在し、結果として患者は医療アクセスを避け、孤立する。
教育と文化に根を張る偽情報の構造
マルタの偽情報の特徴は、それが教育制度や文化的な伝統を通じて再生産されている点にある。1984年の反中絶プロパガンダ映画『The Silent Scream』は、何十年にもわたり学校で教材として使用されてきた。「中絶は残虐で非人道的な行為である」というイメージが刷り込まれ、それが可視化されたヴィジュアル(胎児の写真、妊娠後期の手術映像など)によって強化されている。
加えて、マルタの医学校では中絶に関する教育が事実上存在しない。スタビレによれば、「マルタの医師は世界で働けるように育てられるべきだが、今はマルタ国内専用の医師になっている」。これは、偽情報が知識の空白によって制度的に温存されている典型例である。
医師による偽情報の拡散というパラドックス
驚くべきことに、偽情報の一部は専門家自身の手によって拡散されている。2023年にはある地元医師が「レイプ被害者は妊娠しない」とSNS上で発言し、Times of Maltaによってファクトチェックされた。これは中世以来続く神話の再生産であり、現代でも政治的ナラティブの素材として使われることがある。
また、「中絶薬(ミフェプリストン)の効果を“逆転”できる」という科学的根拠のない主張も、マルタでは一部医師により実際に処方されていた。米国産科婦人科学会はこれを「未証明かつ非倫理的」と断じている。
数字が語る「存在しない中絶」の現実
表面的には禁止されているはずの中絶だが、この5年間で2000件以上の自己管理型中絶が確認されている。これは、NGO「Doctors for Choice」が支援するオンライン相談や国外渡航によって実現されたものだ。制度によって中絶が「消えた」のではなく、制度の外で非可視化されているにすぎない。
それにもかかわらず、SNS上では「マルタでは中絶は行われていない」という投稿が拡散され、あたかも法律が完全に効果を上げているかのような錯覚が維持されている。
偽情報が政策決定と世論を歪める構図
中絶をめぐる事件が陰謀論に変質することもある。米国人観光客アンドレア・プルデンテが妊娠合併症で中絶を拒否された事件については、野党指導者までが「第三勢力による中絶合法化の工作」とほのめかした。このようなナラティブの登場は、医療事件が政治闘争に取り込まれ、誤情報と陰謀論の温床になる典型的なパターンである。
評論:偽情報は「情報の欠如」が生む、という事実
このレポートは、偽情報とは何か、という問いに対して一つの明確な答えを提示している。すなわち、偽情報は敵意や操作の産物である前に、「情報の欠如」によって自然発生するという点だ。制度的沈黙、教育の欠如、社会的タブーは、誤解や神話を生むのに十分すぎる土壌である。
そしてこのケースはマルタに限った話ではない。医療、気候、移民、ジェンダーなど、価値観が強く交錯する分野では、「語られないこと」こそが最大の偽情報生成装置になる。マルタの事例はその極端な形式であり、他国にとっても決して他人事ではない。
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