2022年以降、米国では肥満治療薬として脚光を浴びたGLP-1受容体作動薬(GLP-1 agonists)をめぐり、想定外の「市場」が形成された。その市場とは、FDAが正式に認可していない調剤製品(compounded drugs)や、偽造品(counterfeit drugs)、さらには偽情報に基づく代替品(patches, gummies, drops)といった、制度の隙間から溢れ出たもうひとつのGLP-1市場である。
この状況を包括的に分析したのが、米National Consumers League(NCL)が2025年5月に発表したホワイトペーパー『Compounding, Counterfeits and Confusion: Confronting the Infodemic of Disinformation on Obesity Treatments』である。本稿では、この報告書の構造を読み解きつつ、医薬品市場における制度的真空とインフォデミックの接続を考察する。
GLP-1薬という「科学的正義」が直面する不正規市場
GLP-1薬は、もともと糖尿病治療薬として開発され、食欲抑制・血糖コントロール・消化の遅延などを通じて体重減少をもたらす。近年では肥満治療薬としての有効性が注目され、米国だけで2500万人が使用していると推計される。
しかしその一方で、2022年末から2024年にかけて、需要の急増と供給不足が発生。FDAは一時的な措置として、調剤薬局によるGLP-1薬のコンパウンド(調剤)を認めた。これは本来、個別処方に基づく医師の判断による小規模調製を想定した制度(503A/503B)であったが、その制度的設計が一気に「量産と無認可販売」の温床へと転化する。
市場が制度を踏み越えるとき:商業化された「調剤薬」の拡散
この「第二市場」では以下のような製品が氾濫する。
- 非正規のGLP-1コンパウンド製品(多くは自分で分量を測るバイアル式)
- ビタミン添加や用量改変がなされた非標準構成の薬品
- 実際にはGLP-1ではないにも関わらずGLP-1的に装われた製品(gummy、drop、patchなど)
報告書によれば、約1,000万人がこのような製品を服用した可能性があると見られ、FDAには2025年2月時点で775件の有害事象(死亡17件、入院100件以上)が報告されている。さらに、毒物管理センターへのGLP-1関連の問い合わせは2019年比で1500%増という異常な状況が発生している。
情報のパンデミック:インフォデミックという現象
本報告書の中心的概念は、「インフォデミック(infodemic)」である。これはWHOが提唱した用語で、「正確な情報と誤情報が混在し、健康行動に影響を与える情報の津波」と定義される。
報告書では、以下のようなメカニズムによって消費者の誤認が引き起こされているとされる:
- 「FDA認可済」「doctor approved」といった表現が乱用され、正規薬と同等と誤信される
- SNSインフルエンサーや検索広告を通じて「安全・簡便・安価」のイメージが形成される
- NIHなどのロゴや研究引用を装ったミスリーディングな表現が混在
特に注目すべきは、NCLが実施した調査である。2025年3月、1,500人の女性(18–55歳)を対象に行われた全国調査では、以下のような結果が示されている。
- 85%の女性がGLP-1製品の広告内容を信頼している
- 53%が「コンパウンド薬はFDAに認可されている」と誤信
- 71%が「市場に出ている以上、安全性が確認されている」と信じている
これは単なる誤解ではなく、情報の構造的歪みが行動変容にまで波及している典型例である。
規制の遅れと制度の灰色領域
報告書は、制度的背景にも焦点を当てている。
- 503A/Bに基づく調剤薬はFDAの認可を受けず、有効性・副作用の事前審査も不要
- 製造元(API)の情報開示や副作用報告義務もなく、監視が極めて困難
- 通販・SNS販売・DTC広告に関する規制が処方薬向けに設計されておらず、野放図状態
この制度のグレーゾーンを利用して、悪質な業者が「医師監修」「科学的根拠あり」と偽って製品を拡販し、消費者はGLP-1と称する製品を”通販で買って自分で注射する”というリスクの高い状況に置かれている。
NCLの提言:制度の更新と情報環境の再設計へ
報告書は最終章で、9つの政策提言を掲げる。特に注目すべきは以下である:
- GLP-1の誤情報対策を国家優先課題とする(FTC, FDA, 州の法執行機関との連携強化)
- GLP-1の保険適用拡大を進めることで非正規市場の需要を削減
- 表示義務、API情報開示、副作用報告義務の法制化
- DTC広告の適正化と、SNSプラットフォームに対する規制提案
これらは一見、医薬品規制に関する問題のようでありながら、実際にはインフォメーション・ガバナンスと消費者心理の問題でもある。制度が隙を見せれば、誤情報がそこに入り込み、「市場」が自然発生する。そして、それは単なる商業問題ではなく、公衆衛生リスクとして立ち上がる。
まとめ:薬の名前を巡る情報秩序の再構築へ
このレポートが示す通り、制度の設計が不十分な状態で薬の供給に混乱が生じれば、商業的誘因と偽情報が結びつき、巨大なリスク市場が立ち上がる。GLP-1薬の事例は、21世紀の情報環境における医療レジームの脆弱性を示すものである。この事例は、ある特定の医薬品の問題にとどまらず、「名前のついた薬」が語られるとき、その情報環境全体がどう機能しているかを捉え直す契機となるだろう。
コメント