欧州連合基本権庁(FRA)が毎年発行する「Fundamental Rights Report」は、EU域内の人権状況を総括的にレビューする定点観測の役割を担ってきた。2025年版(2025年6月10日公開)では、ウクライナ戦争の継続、ガザ情勢の緊迫、デジタル規制の加速、移民政策の転換といった2024年の動向を背景に、EU全体の権利保護体制のほころびと、それに対する制度的修復の試みが詳細に記されている。
本稿ではその中でも特に、偽情報、AI規制、差別、国境管理の4点に焦点を絞り、報告書が示した具体例と制度的含意を整理していく。
選挙干渉とAI:ルーマニア大統領選挙の無効は何を示すか
FRAは「選挙における基本的権利の尊重」を1章を丸ごと使って特集している。その中でも象徴的に扱われているのが、ルーマニアで発生した極めて異例の事件である。
TikTok上に突如現れた無名候補が、AI生成の偽映像や偽情報を駆使して若年層の支持を集め、第一回投票で1位を獲得。しかし選挙後に調査が進むと、違法な政治広告、資金源の不透明性、AIアルゴリズムを悪用した拡散戦略が判明し、憲法裁判所が選挙結果の無効を宣告した。
この件にFRAは特別な注意を払っており、ディープフェイク、マイクロターゲティング、外国勢力の影響といった複合的な技術的操作が「有権者の自由な意思形成を阻害した」と評価している。こうした現象に対応すべく、EUは以下の三本柱の規制を導入した:
- Digital Services Act(DSA):プラットフォームに違法コンテンツ削除義務とリスク評価義務を課す。
- AI Act:選挙への影響を及ぼすAIを「高リスクAI」と認定、影響評価と監視を義務化。
- 政治広告規制(Regulation 2024/900):EU外部からの広告提供禁止、出資者の透明化。
だが、これらの法制度はまだ実装と執行の初期段階にあり、各国のデジタルサービス調整官の不在や執行リソース不足が深刻な課題となっている。
AIと偏見:新たな差別の構造化
FRAのAIに関する調査は、アルゴリズムのバイアスが社会的マイノリティをどう扱っているかに焦点を当てている。報告書では、AIベースのヘイトスピーチ検出がユダヤ人、ムスリム、LGBTIQなどの集団に対して誤検出や選択的削除を生む可能性が指摘されている。結果として、自由な表現が抑制され、逆に差別的な言説が温存されるリスクもある。
FRAは以下の点を具体的に提言している:
- DSAにおいて、ミソジニー(女性憎悪)や人種差別的言説を「体系的リスク」と明記し、対象プラットフォームに対処義務を課す。
- AIシステム導入時には、Fundamental Rights Impact Assessment(基本権影響評価)を義務化。
- バイアス検出には、十分なトレーニングデータと外部検証機関の介入が不可欠。
また、FRAはAI Actの施行後も、AIリスクアセスメントに関するガイダンスを2025年中に公表予定であり、今後の規制運用における重要な指針提供機関と位置付けられている。
排除される人々:制度が再生産する不平等
本報告書では、女性、LGBTIQ、障害者、ロマ、移民などが政治過程からどのように排除されているかを定量的に示している。特に目立つのは以下の点である:
- ロマ人口はEU内で約600万人と推定されるが、欧州議会にロマ系議員はゼロ。
- 2024年の欧州議会選挙における女性議員比率は39%で2019年から後退(一部国では全男性候補のみ)。
- 障害者の有権者権限制限が依然として法的に存在し、支援制度も不十分。
- LGBTIQ候補に対するオンライン上での性的中傷、SNS上での扇動的攻撃が常態化。
こうした排除に対しFRAは、政治資金配分における性別要件の義務化、候補者支援ガイドラインの制定、政党に対する構造的評価制度の導入などを提案している。
移民と国境の人権:支援者まで罰する制度へ
報告書の最も深刻なセクションの一つが、移民・亡命政策における権利侵害に関するものである。2024年、地中海などで死亡・行方不明となった移民は3642人。一部加盟国ではNGOの捜索救助活動に対して、「不法行為助長」として刑事罰を科す動きすら見られた。
新たに採択された「移民・亡命パクト」は、入国後の審査を迅速化し、迅速な強制送還を可能にする制度だが、FRAはその中で「独立監視機関」の設置義務に注目している。これにより、手続きの簡素化が権利侵害を伴わないよう、外部からの評価が可能となる。
ただし、これも制度が形骸化すれば、難民の尊厳や非送還原則の侵害につながる危険性が高いとFRAは警告している。
総評:技術規制と基本的権利の交差点で
2025年のEUは、デジタル規制(DSA・AI法)と移民政策において新しい局面に入っている。しかし、法が存在することと、それが有効に機能することは別問題である。FRAの報告書は、法制度の執行力、資源配分、監視体制の整備がいかに不可欠かを明確に提示している。
この報告書は、単なる統計や調査の集積ではなく、民主主義・法の支配・基本的権利の実質的な保障とは何かをEU全体で再確認するための制度診断でもある。特に偽情報対策に関わる専門家にとっては、AI、選挙、デジタル空間における規範の現状と展望を体系的に捉える基礎資料として、今後の制度設計・政策立案に活用できる内容となっている。
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