民主主義に潜む「分断の種」を誰が蒔いているのか──Hybrid CoE報告書より

社会的アイデンティティが偽情報の標的となる──Hybrid CoE報告書が描く、民主主義の構造的脆弱性とその実例。 民主主義

 偽情報による攻撃は、事実をねじ曲げるだけでは終わらない。Hybrid CoE(欧州対ハイブリッド脅威センター)の最新報告書が描くのは、「社会的アイデンティティ」がいかにして偽情報の標的、あるいは触媒となるかという問題である。

 リベラルな民主主義は、宗教・民族・性別・階層・思想といった多様なアイデンティティの共存を前提に成立している。だが、その多様性が「武器」になる。偽情報の拡散は、社会内部に存在する緊張や不信、既存の不平等感と結びつき、制度に対する信頼をじわじわと腐食させる

 報告書はこの構造を、「社会的アイデンティティとハイブリッド脅威の交差」として整理し、2016年から2024年にかけての欧州・北米の4つのケースを通じて検証している。


「感情的分極」が攻撃の起点となる

 本報告書で繰り返し登場するのが、「affective polarization(感情的分極)」という概念である。人は、自分の属する集団に対して好意的に、他の集団に対して敵対的に反応する傾向を持つ。この傾向が、社会の中で明確な「敵・味方」構図を生む。

 偽情報はこの感情構造を加速させる。報告書によれば、不安定な時期や社会的危機においては、人々は単純な敵味方の物語を求め、そこに「外からの介入」が乗じる。そして標的となるのは、しばしば「移民」「難民」「宗教少数派」「女性」「LGBTQ+」といった社会的マイノリティである。


4つのケーススタディ:アイデンティティに火をつける偽情報

ドイツ(2016):「リサ事件」と難民をめぐる噂

 ロシア系住民の少女が移民に暴行されたという虚偽報道が、ロシア系メディアから発信され、SNSで拡散。難民受け入れを進めるメルケル政権に対する不満と結びつき、反移民デモが発生した。
既存の社会的不安──「治安の悪化」「文化的摩擦」「ムスリムへの恐怖」──に便乗した偽情報の典型例であり、民族的・宗教的アイデンティティの交差点が標的となった

フランス(2018–2019):ジレ・ジョーヌと反エリート感情

 もともとは燃料税への抗議だったジレ・ジョーヌ運動が、社会階層の不満、都市と地方の断絶、政府不信へと広がっていく中で、ロシア系メディアが運動に便乗。
 虚偽写真や過去の抗議映像を用いた誇張報道がなされ、「マクロン政権は抑圧的で腐敗している」という物語が強化された。報告書は、階層アイデンティティと政治的イデオロギーが同時に動員された事例として分析している。

米国・欧州(2016–2024):ジェンダーと性的マイノリティへの攻撃

 ヒラリー・クリントン、カマラ・ハリス、そしてLGBTQ+の活動家。彼女たちは、「公的空間に出てきた女性・性的少数者」という理由で、攻撃対象とされた。
 #JoeandtheHoeや#HeelsUpHarrisのようなハッシュタグキャンペーン、セクシャリティを貶めるフェイク動画、性的偏見を利用したミームなど、明確にジェンダーを標的とした偽情報の拡散が行われている。

スウェーデン(2021–2023):児童保護制度をめぐる宗教的フェイク

 「スウェーデン政府がイスラム系の子どもを誘拐している」という主張がSNSで拡散。福祉制度への不信と、宗教的アイデンティティの被害感覚が結びつき、国内外のムスリム・ネットワークが反応。
イラン系のサイバー攻撃によって、数万人への煽動的SMS送信まで行われた。制度不信 × 宗教的疎外感という構造が、外部からの操作を容易にした。


「民主主義の中核」を守るには

 報告書は結論として、こうした攻撃が「認知」ではなく「構造」を突いてくることを強調する。標的となるのは、社会に内在する緊張や不平等であり、それを煽ることで制度全体の正当性が崩れていく。

 対応の鍵は、短期的な反撃(ファクトチェックや検閲)ではなく、長期的な信頼と包摂の構築である。とりわけ、「自分のことを誰も代表してくれない」という感覚を持つ集団の声を無視しないこと。それこそが、外部からの干渉を跳ね返す「多元的レジリエンス(pluralistic resilience)」の基盤になる。

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