ICFJ(International Center for Journalists)が2025年10月に発表した『Disarming Disinformation: United States Case Study』は、単なる「偽情報研究」ではない。報告書の主題は、事実の誤りやSNSの誤用ではなく、偽情報が民主主義の制度を内部から侵食していく構造そのものである。とくに注目すべきは、「報道への攻撃」と「偽情報の拡散」が別々の現象ではなく、同じ生態系の中で相互に補強し合う仕組みとして描かれている点だ。
報告書はまず、トランプ政権期以降の米国に形成された「敵対的エコシステム」を明確に定義する。政治的リーダーが「press is the enemy of the people」と発言し、それをオンラインコミュニティや右派メディアが繰り返し拡散する。SNSのアルゴリズムが怒りと敵意を増幅し、地方メディアの記者までが脅迫やハラスメントの対象となる。この連鎖の結果、報道の自由は理念ではなく職業リスクに変わった。報告書は、偽情報を国家や政治が「武器化」する時代に、ジャーナリズムがどのように生き延びるかを問う実証的研究として位置づけられている。
同報告は、ICFJによる三年計画「Disarming Disinformation」プロジェクトの一環であり、米国編は欧州・中南米・東欧のケースに続く第二報となる。だが米国編には、象徴的な意味がある。というのも、「報道の自由」を輸出してきた国で、その自由が内部から崩壊している現実を描くことは、国際的なメディア環境の変化を象徴するからである。
方法:五つの現場を軸にした重層的調査設計
調査の枠組みは広い。対象は黒人、ラティーノ、アジア系、先住民という四つのエスニックグループに属する45媒体。うち五つ──Telemundo Yuma、Phoenix North America Chinese Channel(PNACC)、Indian Country Today(ICT)、The Haitian Times、New York Amsterdam News──が詳細なケースとして分析されている。調査は、42人の記者・編集者へのインタビュー、1万本近い記事のテキスト分析、Facebook上の303投稿の追跡、そして全米1,020人を対象とした代表世論調査を組み合わせた混合設計で構成される。
理論的には、フレーミング理論とナラティブ分析を採用し、偽情報を「誤り」ではなく「物語の構造」として読む。陰謀論は誤りを指摘しても消えない。人々の世界観を支える「語り」として機能するからだ。報告書はこの点を踏まえ、偽情報を正すのではなく、どのような社会構造の中でそれが生まれ、信じられ続けるのかを解明する方向に分析の重心を置いている。
情報の届かない構造──「翻訳バイアス」と文化的ニュース砂漠
報告書が提示する最も重要な概念が「翻訳バイアス」である。英語中心の報道体系では、英語を母語としない層が構造的に排除される。ニュースは存在しても届かず、届いたときには意味が変わっている。翻訳の過程で政治的トーンが付加され、文化的文脈が失われる。報告書はこれを、物理的な報道空白だけでなく、文化的・言語的に切断された領域=文化的ニュース砂漠と呼ぶ。
具体的な事例として、中国語圏メディアでは英語ニュースの翻訳がトランプ寄りの政治的文脈で再構成される傾向が指摘されている。ラティーノ圏では、英語ニュースを翻訳する際に「移民」「治安」「外部からの脅威」といった語彙が強調され、恐怖の物語へと変換される。英語ニュースが情報源でありながら、翻訳の位相で「別の現実」が生成されてしまう。この構造的歪みこそが、偽情報が根づく温床だと報告書は論じる。
周縁のメディアは「社会のセンサー」である
報告書が真に光を当てているのは、こうした周縁の情報空間を日常的に監視し、誤情報を早期に検知しているエスニックメディアの存在である。五つの事例はいずれも、単なる被害者ではなく社会のセンサー(cultural early warning system)として描かれている。
たとえば、オハイオ州スプリングフィールドで発生した「ハイチ難民がペットを食べている」という虚偽情報の拡散に対して、『The Haitian Times』は継続的な調査報道を行い、噂の出所と拡散経路を追跡した。右派政治家の発言やソーシャルメディア投稿を検証し、地元住民の証言と照合して誤情報を反証する過程を可視化した。同紙の編集者は「私たちはデマを打ち消しているのではない。なぜその物語が生まれたのかを説明しているのだ」と語っている。
『Indian Country Today』は、主流メディアが「部族代表」としてしか扱わない構造を批判し、先住民の主権と文化を自らの語りで表現する。『New York Amsterdam News』は黒人コミュニティにおける「運動ジャーナリズム」の伝統を継ぎ、読者を単なる受け手ではなく報道の共同体の一部として扱う。『Telemundo Yuma』は多言語放送で、英語ニュースの届かないラティーノ住民に公共情報を提供する。『Phoenix North America Chinese Channel(PNACC)』は、中国語圏コミュニティにおける誤情報の取り扱いを通じ、外国政府や商業圧力からの独立性の必要を訴える。これらの媒体が共通して示しているのは、偽情報への対抗とは「誤りを否定すること」ではなく、「社会の中で語られていないことを可視化すること」である。
AIが描く「語られない物語」の地図
報告書のもう一つの独創的な要素が、GPT-4 Turboによる自動テキスト分析だ。研究チームは記事9,723本をスクレイピングし、AIに「主題・バイアス・感情強度・ファクトチェックの有無」など九つの項目をコーディングさせた。これはAIを真偽判定の機械としてではなく、社会科学的コーダーとして使う実験である。人手によるサンプル検証の結果、政治的傾向の分類で100%、感情表現で94%、ファクトチェック判定で97%の一致率を得た。
AIが描き出した「言説の地図」は興味深い。黒人メディアは制度的不平等や投票抑圧など構造的問題を中心に扱い、中国語圏メディアは政治陰謀論や災害報道で感情語を多用し、ラティーノ圏メディアは生活上の脅威を中心に語る。ラティーノ圏では“misinformation”という語自体が多く使われ、偽情報という概念が文化的に定着していることも確認された。AIによる言説地図化は、エスニックメディアの報道姿勢の違いを可視化するだけでなく、「誰が何を語らずにいるか」を浮き彫りにする。この試みは、AIを社会科学の実証ツールとして用いた先駆的な事例と言える。
記者たちの証言──孤立と倫理の狭間で
報告書には42人の記者・編集者の証言が収録されており、そこには数字では見えない現場の緊張がある。誤情報を否定した直後に脅迫を受ける、オンラインで個人情報を晒される、スポンサーからの圧力で記事を削除するよう求められる──これらは日常的な出来事として語られる。
とくにラティーノメディアでは「英語で記事を書けば読まれない、スペイン語で書けば支援が得られない」という二重の圧力があり、報道の自由が経済構造によって制約されていることが浮かび上がる。ICTの記者の言葉が象徴的だ。「偽情報との戦いは、真実を守る戦いではない。私たちが自分の声を取り戻す戦いだ。」
世論調査が示す「矛盾した信頼」
全米1,020人を対象にした調査では、86%が「記者へのオンライン攻撃を見た」と回答している。報道への敵意が可視化される一方で、68%は「攻撃された記者は保護されるべきだ」と答えた。報告書はこの結果を“contradictory trust(矛盾した信頼)”と名づけ、民主主義の根本的な亀裂を示すものとした。人々は報道を「偏っている」と批判しながらも、報道が存在しなければ社会が崩壊することを本能的に理解している。白人層では報道不信が44%に達する一方、有色人種では32%にとどまり、エスニックメディアが信頼の緩衝地帯として機能していることがわかる。信頼と不信が同時に存在するこの構造は、偽情報の拡散を支える心理的基盤でもある。
提言:報道を安全保障の一部とみなす
最終章の22項目の提言は、抽象的理念ではなく具体的制度設計を伴っている。報告書は報道を「Security Ecosystem for Journalism(ジャーナリズムの安全保障生態系)」として再定義する。物理的安全(取材現場での暴力防止、警察との連携)、デジタル安全(個人情報防衛、ハラスメント対策、証拠保全)、心理的安全(トラウマケア、職業的孤立の緩和)を統合的に整備し、メディア支援基金や多言語報道への恒久的助成を制度化すべきだと主張する。
同時に、プラットフォーム企業にはアルゴリズム透明化と外部監査を義務づけ、広告収益の偏りを是正する法的枠組みを提案する。報道機関には「両論併記主義(bothsidesism)」を超えた価値判断を求め、社会的少数派を対等な公共の担い手として扱うことを勧告している。報道を「安全保障のインフラ」とみなすこの視点は、偽情報を技術的問題から政治制度の問題へと位置づけ直すものであり、報告書の最も野心的な部分である。
結語:偽情報を「消す」のではなく、「届かせる」
ICFJの報告書が提示するのは、偽情報を敵対的プロパガンダとして取り締まる発想ではない。むしろ、社会の中で情報が届かない構造──翻訳の歪み、文化的排除、経済的圧力、そして信頼の断絶──を変えることが核心にある。エスニックメディアや先住民メディアは、国家や巨大プラットフォームが把握できない社会の神経末端として、噂や誤解を最初に感知し、地域の言語で検証し、公共圏へと戻す。彼らは偽情報対策の前線であり、同時に民主主義の維持装置でもある。
偽情報を「解体する」とは、嘘を消すことではない。聞かれなかった声を届かせることだ──報告書全体がその思想で貫かれている。ICFJ『Disarming Disinformation: United States』は、偽情報をテーマに掲げながら、実際には報道、信頼、安全、AI、公共性という五つの層を同時に分析した、現代民主主義の再設計図である。

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