2025年10月に公表された「Retrospective Report on the 45th General Election」は、カナダがこれまで構築してきた選挙干渉対策の制度を、初めて完全な形で運用した記録である。報告書は、外国勢力による干渉や偽情報、越境的な威圧行為(Transnational Repression, TNR)、そしてサイバー脅威に対して、政府がどのように監視・判断・対応したのかを、準備段階から選挙後まで一貫して整理している。核心にあるのは「危機を公表するか否か」という判断を、政治ではなく制度に委ね、沈黙をも説明可能な行政行為とした点である。
非政治的パネルによる判断構造
中心制度は「重大選挙事案公開プロトコル(Critical Election Incident Public Protocol, CEIPP)」である。選挙中に外国干渉や情報操作などが発生した場合、それを国民に公表するかを決定する。判断を担うのは政治家ではなく、官房長官(Clerk of the Privy Council)を議長とする五人の高級官僚──国家安全保障・情報顧問、外務・公安・司法の各副大臣──からなるパネルだ。彼らは政権から独立した立場で行動し、判断の基準は「公表が選挙の公正性に与える影響」である。公表すること自体が脅威を拡散し、制度への信頼を損なう可能性があるため、あえて沈黙を選ぶ権限を制度として確立した。
Clerk’s Guidance──沈黙を記録する行政
2025年1月、官房長官ジョン・ハナフォードは、CEIPPの運用を具体化する「Clerk’s Guidance」を発出した。この文書は、情報共有のルール、会合の頻度、記録の方法、広報方針、沈黙を選ぶ場合の手続きを詳細に定めている。重要なのは「発表しない」という判断そのものを文書として残す義務を明確にした点だ。沈黙を不作為ではなく、説明責任を伴う行政行為として制度化した。これにより、透明性は「すべてを公開すること」ではなく、「判断の経路を追えること」へと再定義された。
準備段階──17回の会合と国際協議
2024年から2025年にかけて、パネルは17回の準備会合を開き、各省庁、学術機関、市民団体、外国政府関係者との協議を重ねた。フランス、英国、米国、ドイツなどと情報交換を行い、選挙干渉対策の国際的知見を収集。さらに「ハイブリッド脅威センター(Hybrid CoE)」のシナリオ演習を通じ、仮想的な干渉事例に対する対応を訓練した。国内では、政治政党へのブリーフィング、選挙管理機関との調整、民間研究ネットワーク(CDMRN)との連携も進められた。
また、デジタルプラットフォームとの協力強化を目的として「Statement of Canadian Democratic Principles」が2025年3月に発表された。これはSNS企業に対し、情報の真正性と透明性を確保する社会的責任を明示する宣言であり、MetaやTencentなど主要企業と個別協議が行われた。
GE45の運用──SITEタスクフォースの中枢機能
選挙が3月23日に公示されると、CEIPPパネルの監視権限が発動された。実務を担ったのは「SITEタスクフォース(Security and Intelligence Threats to Elections)」で、CSIS(カナダ安全情報局)、CSE(通信安全保障機構)、RCMP(王立カナダ騎馬警察)、外務省RRM(迅速対応メカニズム)などの専門家が集結。期間中、31本の日次報告(SITREP)が作成され、分析官らが情報操作やサイバー脅威を分類し、パネルへ報告した。並行して毎日、各省庁の次官級会合(ADM ESCC)が開かれ、政府全体の即応体制が維持された。
報告書によれば、パネルは選挙期間中に八回会合を開き、いずれの事案でも「選挙の自由と公正を脅かすほどの影響は認められない」と判断した。声明は一度も発出されなかったが、その全過程は詳細に記録され、後に公開された。
実際に確認された干渉事例
① WeChat による情報操作(中国)
中国系SNS「WeChat」の人気ニュースアカウント「有理有面(Youli-Youmian)」を中心に、リベラル党党首マーク・カーニーに関する対立的なナラティブを拡散する情報操作が確認された。記事は約30の関連アカウントで組織的に増幅され、最大で130,000件の反応と100万〜300万回の閲覧を記録。情報源は中国共産党中央政法委員会に連なる組織とされる。政府は4月7日の週例技術ブリーフィングでこの事案を公表し、外務省が在加中国外交官に抗議。背景資料は英・仏・簡体字・繁体字で同時公開された。
② ジョセフ・テイ候補への越境弾圧(Transnational Repression)
香港当局が民主活動家である保守党候補ジョセフ・テイに対し、国家安全維持法違反容疑で懸賞金付き逮捕状を発出。これを契機にSNS上での中傷と威嚇が活発化した。選挙中も継続的なデジタル圧力が確認され、パネルは六回にわたり審議。個人情報保護と拡散防止のため当初は沈黙を維持したが、4月21日の技術ブリーフィングで「中国によるデジタル越境弾圧」として一般形で公表した。報道資料は中国語訳を含め公開され、外務省が正式に中国政府へ懸念を伝達した。
③ ロシアの情報操作ネットワーク
ロシア政府系メディアの内容を再配信するウェブサイト群が、選挙期間中にカーニー党首を巡るナラティブを増幅。投稿は少数だが系統的に行われた。しかし閲覧数は低く、パネルは「低影響」と評価し、一般的な外国情報操作の説明に留めた。
このほか、インド・パキスタンに関連する活動も監視されたが、具体的な干渉は確認されていない。サイバー攻撃や暴力的過激主義も検出されず、全般的に小規模な活動に留まった。
メディアブリーフィングと市民向け対応
GE45では、政府が初めて選挙期間中に週次の技術ブリーフィングを実施した。これはパネルとSITEが連携して、観測された脅威や手口を公に説明する場であり、主なテーマは以下の通りだった。
- 外国干渉の概要と政府の防衛措置
- 候補者安全プログラム(Candidate Security Program)の紹介
- WeChat事案および越境弾圧(TNR)の説明
- サイバー攻撃とAIを利用した偽情報の動向
- 偽情報・詐欺対策の啓発
報道機関の反応は概ね好意的で、制度の透明性を高めたと評価された。
制度の成果と課題
報告書は、GE45が「より成熟した制度的対応の確立を示した」と総括している。特に以下の点が成果として挙げられた。
- 平時からの訓練・シナリオ演習の定着
- 政党・プラットフォーム・市民団体との情報共有体制
- 多言語化を含むアウトリーチ強化
- 詳細な議事録と記録による検証可能性の確立
一方で、今後の課題としては、英仏以外の言語圏コミュニティへの対応や、外部専門家を加えた「第六のパネルメンバー」制度の検討、SITEの恒常化・拡張が挙げられた。
結論──「沈黙を説明できる民主主義」へ
GE45回顧レポートは、民主主義を守る制度の成熟過程を描いた。国家が危機を隠すのではなく、「沈黙」を説明責任の対象とする構造を作り出したことが最大の成果である。政治的判断を排し、行政の記録と透明性によって信頼を維持する。情報空間が恒常的に脅かされる時代において、カナダは「語る」と「語らない」の境界を制度で管理する道を選んだ。この文書は、選挙干渉対策を超えて、行政透明性の新しい形を示す重要な実例である。
コメント