2025年夏、オーストリアのアルプバッハで行われたEuropean Forum Alpbach。その場で議論された「Disinformation Foresight Exercise」は、これまでの偽情報対策の枠組みを見直す契機となった。HDMO (Hungarian Digital Media Observatory) コンソーシアムのネットワークを基盤に作成された政策ブリーフ「The future of the anti-disinformation ecosytem」は、単なる将来予測ではない。政治・技術・社会の構造変化を踏まえ、今後の「抗偽情報」エコシステムがどの方向へ進むのかを描き出している。
概念が壊れるとき──「disinformation」が検閲の代名詞となるまで
ブリーフが最初に指摘するのは、米国で進行する「言葉の政治化」である。かつて「disinformation(偽情報)」は、民主主義を維持するための共通語だった。だが近年、米国内ではこの語が「政府による検閲」を正当化する言葉として扱われ始めている。新政権下では対偽情報政策や研究資金の多くが停止・縮小され、関係機関や研究者が「言論統制の担い手」として攻撃の対象となっている。
この変化は国際協力の構造にも影響を与えている。NATOの広報部門やG7協力枠組みなど、かつて偽情報対策を支えていた国際的ネットワークが縮小・解体の方向に向かい、欧州でも「国家主権」と「自由言論」を掲げる勢力がプラットフォーム規制そのものに反発を示している。フランスの国民連合(RN)、ドイツのAfD、オーストリアのFPÖ、英国のReformなどがその代表例である。
結果として、「disinformation」という語を使うこと自体が政治的立場の表明と見なされるようになった。言葉の政治化は、概念の共有を不可能にし、制度・予算・人材といった構造的支えを損なう。ブリーフはこれを「地政学的リスク」として位置づけている。
技術が変える“拡散の質”──生成AIとプラットフォーム後退の同時進行
次にブリーフが取り上げるのは、技術的な環境変化である。主要プラットフォームは米国の「プロテック」や「自由言論」のレトリックに沿って、偽情報対策機能の縮小・統合を進めている。見かけ上のポリシーは残っていても、削除や検出より「表現の尊重」が優先される方向へ移行している。
この傾向に拍車をかけているのが生成AIである。自動生成された文章・画像・音声・映像は、もはや人間の作為を識別しにくい水準に達しており、検出やファクトチェックのコストは急上昇している。AIが生み出すのは虚偽そのものではなく、違和感のない“物語”である。真実と虚構が一体化した構造を前に、従来の検証モデルは有効性を失いつつある。
TTPA後の新しい拡散構造──広告が消えても情報は広がる
欧州における制度的転換点は、2025年10月に全面施行される政治広告透明化規則(TTPA)である。MetaやGoogleなどの主要プラットフォームは、法的リスクを回避するため、有料の政治広告の受け付け自体を停止する方向へ動いている。
しかし、偽情報アクターはこの変化にすでに適応している。広告から有機的拡散への転換が進み、活動家やインフルエンサー、半自動化アカウントが複数のプラットフォームを横断して動く。広告審査の網を回避し、政治色を抑えた日常的な投稿として陰謀論や感情的テーマを拡散する手法が主流になりつつある。
一方で、欧州社会の耐性も確実に強化されている。EUの規制、研究者・ジャーナリスト・ファクトチェッカーの活動、教育的取り組みが重なり、偽情報の手口とリスクへの認知は過去より高まっている。ハンガリーの事例が示すように、同じ宣伝でも社会的効果が低下し、発信コストが上昇している。ブリーフはこの状況を「高コスト化する偽情報市場」として評価している。
対応の再設計──“語彙”を変えることから始める
ブリーフが提示する第一の戦略は、語彙の再設計である。「disinformation」という言葉が極度に政治化している以上、より中立的で機能的な枠組みが必要とされる。代替概念として「information integrity(情報の完全性)」や「resilience(情報耐性)」などが提案されている。目的は、“検閲”と誤解されずに共通の基準を再構築することにある。
語彙の再設計は、単なる言い換えではない。法制度、報道基準、企業ポリシーの各レベルで定義を明確化し、合意形成コストを抑える仕組みとして位置づける必要がある。用語の曖昧化を防ぐため、監査可能な定義集と運用手続きを整備することが求められる。
事実検証の限界を越える──ナラティブ単位への転換
第二の戦略は、分析の単位を事実からナラティブへと拡張することである。現代の偽情報は、事実を誤るよりも、事実の配置と焦点化を通じて受け手の感情を操作する。選択的フレーミング、ハーフトゥルース、情動訴求といった構造を対象とするには、ファクトチェックの枠を超えた分析が不可欠となる。
ただし、ナラティブ分析は容易に「意見の統制」と混同されるおそれがある。そのため、ブリーフは職掌の明確化と透明性の確保を強調する。事実検証とナラティブ分析を分業し、手法・評価指標・監査体制を公開することで、検閲ではなく分析として社会的正当性を維持すべきだとしている。
現場が取り組むべき領域──“生活接地”の課題
ブリーフは、資源を抽象的な情報戦から生活に直結する領域に集中させるべきだとする。重点分野として挙げられるのは、外国勢力による干渉、医療・ヘルスケア偽情報、オンライン詐欺やサイバー攻撃、そして生成AIによる信頼侵食である。これらは直接的被害や制度的リスクを伴い、政治的対立に左右されにくい領域である。具体的成果を積み上げることで、対策全体の信頼性を高めることができると分析されている。
“Follow the money”──構造的説明責任への転換
偽情報拡散の背景には、常に経済的動機がある。ブリーフはこの点を「構造的説明責任」の問題として捉える。外国政府資金、政治広告の不透明な資金源、クリックベイトによる収益、国家支援型プロパガンダなど、金の流れを追うことが、実効的な抑止策になると指摘する。
コンテンツの削除や規制による制御ではなく、資金と責任の透明化を重視するアプローチである。誰が利益を得ているのかを明確にすることが、制度的抑止の核心になるとされる。これは規制よりも監査・開示の枠組みを整備する方向への転換を意味している。
官民の新しい連携──“信頼産業”としての責任
最後にブリーフは、偽情報対策の主体を拡張する必要を指摘する。政府、研究者、メディアに加えて、金融、製薬、エネルギーなど、評判リスクに敏感な産業を体系的に組み込むべきだとする。これらの分野は偽情報による直接的損害を受けやすく、対策へのインセンティブを持つ。
案されるのは、脅威インテリジェンス(TI)とブランドセーフティの連携を図る共通データモデルの構築、企業責任の基準設定、情報共有ガバナンスの整備である。偽情報対策を「公共政策」から「信頼産業のガバナンス課題」へと再定義する視点がここにある。
結語──“高価な嘘”の時代に向けて
このブリーフが描くのは、防御ではなく再構築の戦略である。言葉が政治化し、AIが物語を量産し、広告モデルが崩壊するなかで、真実を守るという発想自体が再定義を迫られている。
それでも欧州は、制度、研究、教育への長期的投資を通じて、徐々に社会的耐性を高めてきた。偽情報は容易に生成されるが、効果を持たせるにはかつてより多くのコストがかかる。ブリーフはこの変化を「成果」として評価しつつ、次の十年は、構造の透明化と責任の共有を基軸に据えるべきだと結論づけている。
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