2025年5月、アメリカ政府のMAHA(Make America Healthy Again)タスクフォースが発表した報告書が静かに波紋を広げている。主題は、アメリカの子どもたちの慢性疾患の急増とその制度的背景である。形式としては公的な保健政策文書でありながら、その内容は驚くほど急進的であり、しかも冷静である。
報告書は、加工食品、環境化学物質、SNSと精神健康、ワクチンや医薬品などの医療制度といった領域を横断的に分析し、いずれもが「制度設計によって子どもに病を与えている」と指摘する。反ワクチン運動や陰謀論といった文脈とは異なり、語り口は整然とし、制度批判の形式を取りつつ、統計データや政策構造の記述に終始する。
しかし、この報告書が発表されるや否や、アメリカの医療・学術・政策界からは批判が相次いだ。その多くは「科学的知見に基づかない」「AI生成による誤引用が含まれる」「制度の信頼を損ねる」といったものであり、特にワクチン接種に関する記述は「公衆衛生を脅かす」と非難された。
だが、ここで立ち止まる必要がある。MAHA報告書は、確かに一部の記述で誇張や検証不備が見られる。だが、問題はそれをもって「偽情報」として一蹴してよいのか、という点にある。むしろこの報告書は、偽情報という言葉では捉えきれない、きわめて本質的な問いを突きつけている。
それは、「科学とは、検証可能性を制度的に支える構造があってはじめて成立するものなのではないか?」という問いである。
評価されていないことが「安全」の根拠になる制度
報告書の第4章は、ワクチン接種スケジュールの拡大を扱っている。1986年に3回だったワクチン接種は、2024年には妊婦接種を含め29回に増加した。報告書はその拡大が自閉症、アレルギー疾患、自己免疫疾患の増加と時期を同じくすることを指摘し、しかしながらその因果を比較した研究が一度も制度的に実施されていないことを問題視する。
通常、この種の疑義は「ワクチンと自閉症の因果関係は科学的に否定されている」という反論で封じられる。実際、大規模な疫学研究の多くはMMRワクチンと自閉症の直接的関係を否定している。
だがMAHA報告書が問題視するのは、そうした個別ワクチンの評価ではない。報告書が問いかけているのは、「なぜ接種スケジュール全体の長期比較研究が制度的に行えないのか」という点であり、さらにその状況がなぜ30年以上も維持されてきたのかという制度設計への批判である。
ここには、「科学的に否定されているから安全」ではなく、「評価すらされていないのに安全とされている」という制度的逆転がある。これはまさに「検証されないことが制度によって許容されている」状態であり、報告書はそれを執拗に追及している。
科学ができない構造そのものが制度設計されている
この問題はワクチンに限られない。食品添加物、農薬、プラスチック成分、環境ホルモン、そしてスクリーンタイムやアルゴリズムの心理影響まで、報告書は一貫して「科学的評価の空白が制度的に固定されている」構造を描く。
例として、GRAS(Generally Recognized As Safe)制度では、食品添加物の多くが企業の自己評価に基づき“安全”とされて市場に出ている。FDAの査読を経ないまま、数千の化学物質が「安全なまま流通」しており、そのうち何割が脳発達や内分泌系に影響するかは誰にもわからない。調査自体が制度上行われていないからである。
そしてSNSに関しても、若年女性の自傷傾向や自殺企図の増加とSNS使用時間との相関は、Meta社内部でも把握されていたにもかかわらず、設計変更は行われなかった。規制当局は、アルゴリズム設計に立ち入る制度的権限を持たず、企業倫理に依存してきた。ここでも「何がどれだけ危害を与えているかは、制度がそれを調べられないようにできている」。
つまり、MAHA報告書が描くのは、科学的無知や誤謬ではなく、「科学が制度の中で機能しなくなる設計」である。
偽情報ではない、しかしファクトチェック不能──その境界をどう考えるか
この構造に対して、「科学的知見と矛盾している」として報告書を否定する行為は、かえって報告書の主張を裏づけることになりかねない。というのも、報告書が突いているのはまさにその「知見はあるが、制度によって“無視”される構造」だからである。
我々が問うべきは、「その主張は正しいか」という二項対立ではない。「その主張は検証されたのか? 検証することが制度上可能なのか?」という問いである。
科学的に誤っている主張は、ファクトチェックによって訂正されうる。しかし、そもそも制度が検証の機会を拒否している場合、そこに誤りも正しさも定義できない。それは、事実の誤認ではなく、構造の不可視性そのものなのである。
つまり、ここで我々が直面しているのは、偽情報の問題ではなく、「制度的無知(institutionalized ignorance)」の問題であり、しかもそれが制度の安定性の上に構築されているという構造的逆説である。
「科学的知見に反する」とは誰が決めるのか
MAHA報告書に対して「科学的知見と矛盾している」と言われるとき、その「知見」はいかなる条件で成立したのか。研究資金はどこから出ているのか。比較研究は可能だったのか。制度はそれを許していたのか。外部の研究者にデータアクセス権はあったのか。反論できる制度構造はあったのか。
これらの問いを抜きにして、「知見に反する」と述べること自体が、制度構造に無自覚なまま、知の正当性を再生産してしまっている。
MAHA報告書は、内容として賛否が分かれても、「何が真実とされ、何が議論から外されてきたのか」という制度的文脈を可視化する点において極めて有益である。そして、そこで扱われているのは「デマ」でも「陰謀」でもなく、「制度が科学を黙らせる仕組み」そのものだ。
この報告書をどう受け取るかは、「偽情報とは何か」という問いにどれだけ深く関われるかにかかっている。そしてその問いは、もはや情報の内容だけでなく、情報が成立する構造そのものをどう設計しなおすかという、制度設計の問題として再浮上している。
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