森林を守るという名の排除──タイの気候偽情報が消してきたもの

森林を守るという名の排除──タイの気候偽情報が消してきたもの 偽情報の拡散

 本稿が取り上げる報告書Climate Disinformation in Thailand: Negating Indigenous Peoples’ Identity(2025年10月発行)は、バンコクのAsia CentreとコペンハーゲンのInternational Work Group for Indigenous Affairs(IWGIA)による共同調査だ。両機関は東南アジアにおける情報攪乱と人権侵害をテーマに連続報告を行っており、資金提供はスウェーデン国際開発庁(Sida)。調査は2023〜2024年にかけて行われ、メディア分析、政策文書の精査、先住民団体や環境活動家への聞き取りを通じて、「気候関連の偽情報が先住民の権利と生活にどのような影響を及ぼすか」を明らかにすることを目的としている。
 この報告書が扱う「偽情報」とは、科学的な気候否認ではなく、むしろ「保全」や「クリーン」「再生」といった前向きな言葉が、どのように土地収奪と沈黙化を正当化するかという構造的問題である。研究の焦点は、国家・企業・メディア・SNSを貫く「気候偽情報」の体系的な働きだ。

保全の言葉が暴力に変わる国で

 報告書が描くのは、気候変動への取り組みが進む一方で、先住民が制度的に声を奪われていくという逆説である。「保全」や「再生」という語が政策や報道の中で“正義”の象徴として使われるほどに、そこから排除される人々の現実は見えなくなる。Asia CentreとIWGIAはこれを「情報攪乱(information disorder)」と定義し、フェイクニュースとは異なる形で社会を動かす構造的偽情報として分析している。

森林回復政策の裏側

 2014年の軍事クーデター以降、タイでは軍と治安機関主導で「森林回復政策」が推し進められた。目的は違法伐採の防止とされたが、実際には国立公園や保全区の拡張による先住民の強制退去を伴う。こうした政策の正当化に利用されたのが、メディアやSNSを通じて拡散する「森林破壊者」や「違法占拠者」というレッテルだった。報告書が「気候偽情報」と呼ぶのは、この“保全を装った情報操作”の層であり、情報と政策が互いを補強しながら暴力を制度化する仕組みを指している。

「Save Thap Lan」──保全の名による排除

 最も象徴的な事例が、東北部タップラン国立公園をめぐる「Save Thap Lan」キャンペーンである。2024年、FacebookやYouTubeで「森を守れ」「違法伐採を止めろ」という投稿が拡散した。空撮映像や野生動物の写真は多いが、そこに暮らす人々の農地や家屋は意図的に映されていない。行政関係者も同様の投稿を行い、テレビ報道は「市民による環境保全の運動」として紹介した。しかし実際には、このキャンペーンが公園内の住民追放を支持する世論を形成していた。報告書はこれを「部分的真実の利用による正当化」と位置づけ、SNS上の保全言説が物理的排除を支える心理的インフラになっていたと分析する。

サーブ・ワイ村の「同意」──形骸化したFPIC

 もうひとつの事例は、森林再生プロジェクトの対象となったサーブ・ワイ村である。行政は住民の署名を得たとして「合意が成立した」と発表し、報道も「地域が協力的」と伝えた。だが実際には、生活の継続を条件に同意書へ署名を強いられた住民も多く、十分な情報提供も議論も行われていなかった。報告書はこれを**FPIC(自由意思による事前・十分な情報に基づく同意)**の侵害と断定する。メディアが経緯を省くことで「同意した住民」という虚像が成立し、行政はその“合意”を政策の証拠として利用した。これもまた、過程を省略することで意味を変える偽情報の典型である。

LNGは「クリーン」なのか──見えない形で進む排除

 LNG(液化天然ガス)を「クリーンエネルギー」と称する言説も、報告書が指摘する重要な構造だ。発電時のCO₂排出が少ないという一点のみを強調し、採掘や輸送時のメタン漏出、沿岸部での基地建設がもたらす社会・環境負荷はほとんど語られない。南部や東部のLNGプロジェクト周辺には、漁労民や少数民族など先住民系コミュニティが多く暮らしているが、報道ではその存在がまるごと消えている。さらに政府のカーボンクレジット制度(T-VER)では、こうした地域が「未利用の森林」として登録され、LNG排出を相殺するオフセット対象地となっている。つまり、クリーンを装う言説の裏で、先住民の土地が市場化され、彼らの利用権が不可視化される。タップランのように悪者に仕立てて排除するのではなく、「存在しないもの」として排除する――報告書はこの“透明化による消去”を、現代型の気候偽情報として位置づける。

ランドブリッジ開発──経済主語の報道

 南部で進むランドブリッジ開発計画も「片面的報道」の典型例だ。主要紙は投資額や雇用創出を大きく報じ、環境影響評価(EIA)や漁業・湿地への影響はわずかに触れる程度。英語メディアは投資家向け、タイ語メディアは国家事業の成功を前提に描くため、両者は相互に補強しあう。こうして「経済は主語、環境は脚注」という編集構造が制度化する。報告書はこれを「沈黙の制度化」と呼び、語られないこと自体が支配の形をとると指摘する。

情報が制度に変わるとき

 こうした偽情報は世論を惑わすだけでなく、政策と法執行の一部として制度化される。先住民が「森林の破壊者」として語られる限り、強制退去や摘発は「保全のための措置」として当然視される。報告書が「社会的許可(social license)」と呼ぶのはこのプロセスである。社会が排除を正当とみなせば、SLAPP訴訟や暴力、失踪といった行為も容認される。情報は、暴力の正当化を支える見えない制度になる。

勧告──ファクトチェックの先へ

 報告書の最終章は、国際機関・政府・企業・メディア・テック企業・先住民自身に向けて多層的な対策を提言する。国連には、気候偽情報を人権侵害の一部として監視する制度的枠組みの導入を求め、タイ政府には憲法に先住民の権利を明記し、FPICを法的拘束力ある手続きとして確立するよう勧告する。メディアにはスポンサー表示の透明化と先住民記者の育成、テック企業には先住民を標的にする気候関連偽情報の優先的モデレーションを求めている。さらに先住民コミュニティ自身に対しては、偽情報を早期に検知し、FPIC侵害を記録・可視化する監視ネットワークの構築を呼びかける。報告書が目指すのは、単なるファクトチェックではなく、情報主権と土地権を結びつけた新たなガバナンスの再設計である。

二つの消し方──悪者化と透明化

 報告書を通読して見えてくるのは、偽情報には二つのタイプがあるという点だ。ひとつはタップランのように先住民を「悪者」として描くことで排除する形、もうひとつはLNGのように語りの外へ押し出して存在を消す形である。攻撃と無視、可視化と不可視化――その両方が同じ権力構造の中で働いている。偽情報とは、真実を歪めることではなく、どの真実を見せ、どの真実を隠すかを選び取る行為である。タイのケースは、気候政策の正義の言葉がどのように制度的な排除へ転化するかを明瞭に示している。

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