2025年9月に公表された報告書『Study of the Information Environment: Armenia』は、アルメニアのメディア構造・政治空間・社会心理を対象に、ロシアが展開する認知戦(cognitive warfare)の実態を解析したものである。発行はポーランド系の分析機関によるが、NATO StratComおよびDFRLabの協力を受け、調査手法と枠組みは欧州のFIMI分析標準に準じている。150ページに及ぶ文書は、単なる偽情報調査を超え、情報空間そのものが「主権の一部」であるという視点に立つ。自由な報道環境を持つ国ほど、構造的依存を通じて外部からの意味支配にさらされる──この逆説を、アルメニアという一国の事例が鮮やかに示している。
政治転換と情報構造:自由の影に潜む依存
アルメニアの情報環境を理解するには、2018年の「ビロード革命」以後の政治的転換を背景に見る必要がある。ニコル・パシニャン政権は、旧ソ連的権威構造からの脱却と欧州的民主化を掲げた。しかしロシアは、アルメニアを南コーカサスの勢力圏に留めることを安全保障の核心と考えており、軍事・経済・文化・言語のあらゆるレベルで影響力を維持してきた。
報告書はまず、国内メディアの所有構造を精査している。公営放送(Armenia 1 TV, Armenpress)以外に民間テレビ局やオンラインニュースが乱立するが、その多くがロシア語版を併設している。特に Kentron TV, Yerkir Media, 5TV は親ロシア政党(Tsarukyan派、Kocharian派)や露実業家との資本的結合が明確であり、情報供給の上流にはGazprom-MediaやSputnik Armeniaが位置する。ニュースや文化番組はロシア発コンテンツを翻訳転載する形で供給され、アルメニア語話者の半数以上がロシア語ニュースを一次情報として認識している。
この結果、国内で報道自由度は高くとも、「情報の言語的インフラ」はロシア圏に依存する構造が成立する。報告書はこれを“semantic dependence”──意味の依存──と呼ぶ。独立国家であっても、言語の層で外部の世界像を輸入していれば、主権は形骸化する。ロシア語を通じて流入する「危機・裏切り・堕落」といった語彙の体系が、政治的判断や道徳的枠組みの深層に埋め込まれている。
恐怖と道徳のナラティブ構造
報告書の核心は、ロシアが展開する影響工作の“感情構造”を可視化した第5章にある。
Lazarusの感情理論を参照しつつ、情報操作を「恐怖→怒り→同調」の連鎖として定義し、そこに登場する言説を“破局ナラティブ(catastrophic narratives)”と呼ぶ。典型的な言語パターンは三つに整理されている。
- 滅亡の予告型:「西側と結ぶことは国家の死を意味する」
- 道徳の防衛型:「ロシアだけがキリスト教アルメニアの精神を守る」
- 裏切りの告発型:「パシニャン政権は祖国を売った」
これらはニュース記事やSNS投稿、ミーム画像に同時多発的に現れ、報告書は数千件の事例をコード化して分析している。
とりわけ2020年の「44日戦争」後、ナゴルノ=カラバフ領の喪失を「欧米志向の罰」と結びつける言説が急増した。宗教的象徴(聖堂・十字架)とともに、“母なるロシア”を守護者として描くビジュアルパターンが拡散し、感情的帰属を形成する。
ここで重要なのは、偽情報が事実の歪曲ではなく、「感情の布置」の操作であるという点である。報告書は“emotionally contagious language”という用語を導入し、怒りや恐怖を喚起する語彙がSNS投稿にどの程度含まれるかを自然言語処理で計測した。結果、親ロシア系投稿群では平均2.4倍多く感情語が含まれていた。怒りの共有が同調圧力を生み、異論を排除する。情報操作は、意見の形成ではなく、感情の配列を制御することで成立している。
SNSネットワークと「偽の検証」装置
オンライン空間では、Facebook、Telegram、YouTubeが主要戦場となる。報告書は2020〜2023年の投稿データを解析し、トロールネットワークの形成過程を追跡した。Telegramでは、同一IP帯から同時に投稿されたアカウント群が100以上確認され、Botometer解析で自動化投稿率が通常の3倍に達していた。彼らはAI生成画像を用い、パシニャン首相の写真を改変して「裏切り者」「西側の操り人形」と描く。
さらに重要なのが、“偽ファクトチェックサイト”の存在である。Antifake.amやVeracity Mediaといったサイトは、形式上はニュース検証を掲げながら、ロシア系メディアの主張を“検証済み”として再拡散していた。報告書はこれを“counterfeit verification”と呼び、正統性の演出を通じてナラティブを定着させる仕組みとして位置づける。検証という行為そのものが信頼の装置である以上、その装置を模倣することは極めて効果的な影響手法となる。
SNSアルゴリズムの側もこの偏向を増幅している。報告書はFacebookの推奨システムをトレースし、宗教的・保守的文脈の投稿が平均6倍多く表示される傾向を確認した。これにより「西欧=脅威」「伝統=防衛」という価値配置が、ユーザーの閲覧体験の中で自然化する。情報空間の重力場そのものが操作されている。
能動的レジリエンス──対抗策の構造
報告書の後半は、対策を「情報防御」ではなく「意味生成の再構築」として設計している。
ポーランド・アルメニア共同の提言は、防御から能動的レジリエンスへという思想転換を軸にしている。
主な施策は次の通りである。
- FIMIモニタリングセンターの設立:影響操作の早期検知とデータ共有を目的とする常設機関をアルメニア国内に設置。
- DISARMモデルの訓練:欧州各国が用いる影響操作検知フレームを教育・行政・報道部門に導入。
- メディアリテラシー教育:学校・大学・公務員研修に「ナラティブ識別」を組み込む。
- AI倫理ガイドライン:生成AIによる画像・文書操作への制度的対応を設計。
- 欧州連携の“Transparent Narrative Project”:正確な情報を競わせるのではなく、価値体系を共有する形で“意味の透明性”を確立する。
報告書は、これらを単なる教育・広報政策ではなく、社会心理の免疫形成プロセスとみなす。恐怖と憎悪の言説に対抗するには、論破ではなく信頼の社会的再構築が必要だとする点に、理論的な成熟がある。
情報主権という概念の再定義
結論部で報告書は、「情報主権」を国家の通信網やデータ保有権ではなく、“意味を定義する力”として再定義する。言語・記憶・価値観の次元で外部の物語を受け入れれば、制度的主権は存在しても認知的主権は失われる。アルメニアの事例はその縮図である。
同時に、報告書はこの分析を地域限定の問題として閉じず、欧州東部全体の安全保障課題として位置づける。ウクライナ、モルドバ、ジョージアなど、同様にロシア語情報に依存する社会では、同じ構造が再現されている。したがってFIMI対策は技術ではなく文化の問題であり、認知インフラの防衛は価値共同体の維持と同義になる。
この観点は、従来の“情報防衛”研究を超え、心理・言語・社会構造を結合した包括的モデルとして高く評価できる。アルメニアの経験は、自由と依存がどのように共存しうるか、そしてその狭間で国家がいかに「意味を奪われる」かを示す実証的証拠である。
他地域への含意──“意味支配”の輸出
アルメニアの分析は、旧ソ連圏に限らず、他地域にも示唆を与える。ロシアの手法は、情報の流通を遮断するのではなく、情報の「意味」を上書きする点に特徴がある。この方法は、宗教的・文化的連続性をもつ社会で特に効果的であり、同様の構造はバルカン、中央アジア、中東、さらには西欧の移民社会にも見られる。
報告書の枠組みを適用すれば、どの社会でどのナラティブが“破局”を演出し、どの感情が政治的操作の媒介になるかを体系的に捉えられる。DISARMモデルの拡張的応用として、今後はAI生成物の追跡や心理操作の検知精度向上が課題となるだろう。アルメニアはその実験場であり、同時に、情報主権の未来を先取りする鏡でもある。


コメント