権威主義国家の「越境的支配」をどう可視化するか──Atlantic Council『Authoritarian Reach and Democratic Response』(2025)の戦術的枠組み

権威主義国家の「越境的支配」をどう可視化するか──Atlantic Council『Authoritarian Reach and Democratic Response』(2025)の戦術的枠組み 情報操作

 2025年10月、Atlantic CouncilのDigital Forensic Research Lab(DFRLab)は、権威主義国家による越境的弾圧(Transnational Repression, TNR)を体系的に分析した報告書『Authoritarian Reach and Democratic Response』を発表した。ロシアや中国が国外の亡命者、ジャーナリスト、政治家を対象に行う圧力や威嚇は、これまで人権侵害や外交問題として個別に扱われてきた。しかし本報告書は、それを外国による情報操作・干渉(FIMI: Foreign Information Manipulation and Interference)の一部として捉え直し、情報戦の戦術体系として可視化した点で重要である。暴力・法戦・サイバー攻撃・偽情報といった多様な手段が、個人を沈黙させ、社会的ネットワークを分断する一連のプロセスとして接続されている。報告書はその構造を段階的に解剖し、民主国家がこれにどう対抗し得るかを、実務的フレームワークとして提示する。


Transnational Repressionとは何か

 Freedom HouseはTNRを「国外に逃れた市民や亡命者を沈黙させるための国家による越境的抑圧」と定義している。報告書はこの定義を拡張し、TNRは領土外にまで及ぶ「情報を媒介とした恐怖支配」であると位置づける。監視や嫌がらせは個人への攻撃にとどまらず、ディアスポラ全体に「常に見られている」という意識を植え付ける。その効果は、直接的な暴力よりも広範で持続的だ。被害者本人が沈黙するだけでなく、周囲の人々も自己検閲に陥る。報告書はこれを“deterrence by fear”と呼び、法的グレーゾーンを利用した心理的抑止構造こそが、TNRの核心だと指摘する。国家の統制力が領土ではなく通信・デジタル空間を通じて再構築されているという点で、TNRは主権の空間的拡張の一形態でもある。


FIMIの中でのTNR:情報操作から身体への干渉へ

 報告書は、TNRをFIMIの「人間中心領域(human-centric domain)」として定義する。FIMIが社会の認知を操作する情報戦であるならば、TNRはその末端で個人の身体と生活空間に直接干渉する領域である。権威主義国家は「情報主権」を自国の領土にとどめず、国外にまで拡張しようとする。国外在住者の発言を監視し、家族や財産を人質に取ることで、国家の支配は情報網を通じて継続する。これにより「国外でも逃れられない主権」が実現される。報告書はこの構造を、民主国家の開かれた制度を逆手に取った情報干渉の一形態とみなす。つまり、TNRとは国外で活動する市民の自由を制限し、同時に受け手国家の世論空間を内側から歪める二重のFIMI行為である。

概念主目的主な手段関係
Foreign Influence外交・文化的影響公開・合法的通常の国家行動
Foreign Interference秘密裏の干渉不正資金・偽情報FIMIの中核
FIMI情報環境の操作SNS・メディア操作・心理戦認知領域を操作
TNR個人の沈黙・恐怖支配監視・法戦・家族威嚇FIMIの人間領域

 この表が示すように、TNRは単なる暴力ではなく、情報操作が物理的な行為へと転化する地点に位置している。FIMIが「認知の支配」を目指すなら、TNRは「生の支配」を目指す。


三段階の戦術的フレームワーク

 Atlantic Councilは、MITRE ATT&CKやDISARMなどサイバー防衛モデルを応用し、TNRを計画・準備・実行の三段階で整理する。
 この分析の焦点は、各段階でどのように民主国家の制度的弱点が突かれているかにある。

(1)計画段階

 攻撃の起点は、政治的目的の設定と対象選定にある。中国では「Tell China’s Stories Well」などの広報方針の下、文化・学術交流を装ってディアスポラや留学生ネットワークを掌握する。ロシアの場合は「西側の分断」や「ウクライナ支援の弱体化」が目的とされ、宗教団体やメディアを介した影響工作が進む。これらの活動は形式上は外交や文化交流であるため、法的規制が及びにくい。報告書は、この合法性の影こそがTNRの温床だと指摘する。対抗策としては、外国影響登録制度の整備や、民間団体・地方政府を含めた早期警戒ネットワークの構築が挙げられている。

(2)準備段階

 この段階では、ターゲットに関する情報収集と脆弱性の特定が行われる。SNSや報道を通じたOSINT(公開情報収集)、ハッキング、スパイウェアの使用、ハニートラップ、法的脅迫などが複合的に組み合わされる。報告書は中国の「青・金・黄」戦術──青=サイバー侵入、金=買収、黄=性的工作──を典型例として挙げ、これが世界各地の華人団体を通じて展開されていることを指摘する。こうした活動は、警察や情報機関の権限の分断を突き、民間空間の「監視の民営化」を進める。防御策としては、OSINT共有とサイバー防御訓練の普及、潜在的協力者への法的警告、NGOと警察の情報共有ルール整備が求められる。

(3)実行段階

 最終段階では、偽情報、法戦(lawfare)、制裁、サイバー攻撃、物理的暴力が連動して発動する。報告書は、カナダの議員マイケル・チョンが中国によってWeChat上で誹謗中傷され、同時に家族への制裁が示唆された事例を取り上げ、情報操作・心理的威嚇・外交圧力が一体化した行動として分析している。ロシアによる亡命者への毒殺、Interpolの濫用、訴訟を利用した嫌がらせも同一系列の作戦とされる。対抗策として、迅速な外交的抗議、外交官追放、制裁、法的支援、被害者支援制度の強化など、複数層の介入点を設けることが提案されている。


権威主義国家の手口:ロシアと中国の実例

 六つの事例が示すのは、攻撃手法の多様性ではなく共通の作戦構造である。中国は、仏欧州議員ラファエル・グリュクスマンに対して「反中分子」「CIAの手先」という虚偽情報を流布し、同時に中国入国禁止などの制裁を発動した。これは批判者の信用を破壊し、他の議員に「越境的リスク」を示す威嚇効果を狙ったものとされる。一方ロシアは、エストニアの元首相カヤ・カラスを「ネオナチ」と呼ぶ中傷キャンペーンを展開し、家族に対する脅迫を伴った。ラトビアの元国防相アルティス・パブリクスは偽メール攻撃で名誉を毀損され、ウクライナ系カナダ人コミュニティはロシアの偽情報により「極右的」とレッテルを貼られた。これらの事例に共通するのは、①標的の社会的信用を奪う、②被害を家族や共同体に波及させる、③情報空間を通じて「見せしめ効果」を作り出す、という三段階の構造である。報告書は、TNRを孤立した事件ではなく、情報戦の連鎖的プロセスとして再構成している。


民主社会の脆弱性と「全社会的防衛」

 報告書の中心的提案は、TNR対策を国家安全保障の範囲に閉じず、社会全体による防衛構造(whole-of-society defense)として再設計することである。TNRの多くは刑事罰に至らない「低強度の嫌がらせ」や「法的グレーゾーン」で進行するため、警察や情報機関だけでは対応できない。必要なのは、国家と市民社会の連携による社会的安全保障の分権化である。NGOは被害者支援と証拠保全、報道機関は偽情報の検証と公開、議員や外交官は制度整備と制裁執行を担う。報告書はこれを「信頼ネットワークの再構築」と位置づけ、社会的連帯そのものを防衛資源とみなす。TNRが狙うのは恐怖と分断による孤立化であり、対抗するには制度ではなく協働と可視化による抑止が鍵となる。


FIMI対策との統合:人間中心の情報作戦分析へ

 本報告書の理論的意義は、TNRを「情報作戦の人間的側面」として位置づけた点にある。これまでのFIMI研究(DISARM, Hybrid CoE)は、偽情報やメディア操作の流通構造を中心に分析してきたが、TNRはその末端で人間の安全と心理に作用する領域を扱う。MITRE ATT&CKの戦術モデルを拡張し、被害者支援や心理的防衛、法戦対応を組み込むことで、情報戦の技術・法・心理を統合する新しい安全保障モデルが見えてくる。これは単なる人権保護策ではなく、民主社会の「情報主権」を再定義する試みでもある。報告書は、日本や欧州諸国を含む民主国家が共通の早期警戒システムと情報共有機構を構築することを提唱し、越境弾圧をグローバルなFIMI対策の一環として制度化する必要性を強調している。情報環境の自由を守ることは、同時に人間の自由を守ることであり、その防衛はもはや軍事でも外交でもなく、社会全体の持続的な共同作業として構築されるべき時代に入った。

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