キャンベラ大学News & Media Research Centre(NMRC)が発表した『Unpacking Election Misinformation』は、2025年のオーストラリア連邦選挙を対象に、偽情報の発生・拡散・知覚・規制意識を総合的に測定した報告書である。YouGovが実施した全国オンライン調査(2025年5月12日〜6月2日、回答2,003件)と、接戦4選挙区(Deakin, Dickson, Gilmore, Werriwa)での半構造化インタビュー35件を組み合わせ、個人の情報行動と心理的変数を結びつけて分析した。測定項目には政治的効力感(内的/外的)、メディア・リテラシー経験、情報源別信頼度、偽情報識別課題、そして規制への態度が含まれ、全体を「アクセス」「識別」「反応」「制度意識」の四層構造で整理している。
情報アクセス:主流報道が残る一方、SNSが世代を分断する
主情報源として「主流ニュースブランド(TV・新聞・ニュースサイト)」を挙げた人は全体の52%。しかし18〜24歳では57%、25〜34歳では52%がSNSを選び、35歳未満ではSNSが主流メディアを逆転した。報告書はこの分岐を“split-source structure”と呼び、同一の政治空間が異なる情報経路で再構成されていることを指摘する。
SNSの中でも構成は異なる。18〜24歳ではTikTok(43%)、Instagram(39%)、YouTube(38%)が主要三位。25〜34歳ではYouTube(41%)が最上位で、特に男性では42%が「YouTubeを選挙情報の主経路」と答えた。動画解説型チャンネルや“オルタナ声”への関心が高く、報告書は「映像言説が若年男性の政治的認知を形成する主要な層をなしている」と分析する。
SNSで注目した発信者を問う設問では、「ニュースブランド」47%、「政党・政治家」44%、「一般ユーザー」37%。18〜24歳に限ると「インフルエンサー」が38%に上り、政治情報の可視化が報道からエンタメ領域へと拡張している。
信頼構造は逆である。最も信頼されたのは選挙管理委員会(AEC, 63%)、次いで公共放送ABC/SBS(54%)。SNSは70%が不信、生成AIチャットボットは信頼9%、不信73%。情報を得る場所と信頼を置く場所が乖離しており、報告書はこの二重構造を「民主的信頼の分断」として描く。
偽情報の出所:発信源としての政治家・政党
「偽情報を見聞きした」と答えた人は全体の60%。しかし、その発信源として最も多く挙げられたのは「政治家・政党」(66%)で、「ニュースメディア・記者」(41%)、「アクティビスト」(39%)を上回った。家族や友人を挙げた人は17%にすぎない。SNSを利用していない層でもこの傾向は変わらず、偽情報の知覚はプラットフォームではなく発話主体への不信として現れている。
主題別では「生活費(53%)」「原子力(51%)」「気候変動(47%)」「移民(44%)」が上位。CALD層(文化・言語的多様性層)では移民・外国影響関連が30%で他層より高く、報告書はこれを「アイデンティティを軸とした偽情報(identity-based misinformation)」と定義する。
この章の特徴は、偽情報を「SNS上の誤った投稿」として扱うのではなく、政治的メッセージ全体の中でどの発話が誤導的と受け止められるかを調べている点にある。
ディープフェイク遭遇:実体よりも“不確実性”
「選挙関連のディープフェイクを見た」と答えた人は12%。しかし「覚えていない/不明」が36%にのぼる。この“見たかどうか分からない”という不確実性そのものが、報告書の着眼点である。若年層、男性、高所得者、CALD層、メディア・リテラシー経験者で遭遇率が高く、形式別では「政治家のなりすまし画像」(44%)、「動画」(37%)、「音声」(20%)。報告書は「ディープフェイクは誤情報の一形態ではなく、知覚の曖昧化を拡大する装置」と位置づけている。
偽情報識別課題:党派的整合性が判断を支配する
専門ファクトチェッカーが抽出・検証した5件の事例(与党系2件、野党系2件、非党派1件)を提示し、真偽を判定させる識別タスクの結果は、正答率43〜58%。非党派例で最も低く、政治的対立に直接関わらない情報ほど判断が困難だった。右派は反野党的情報、左派は反政府的情報を「真実」と判断する傾向があり、信念の整合性が認知精度を上書きする。
識別能力を高める要因としては、ニュース消費量と内的効力感が有意に作用したが、メディア・リテラシー教育単独の効果は限定的。報告書はこの現象を“selective discernment bias”として理論化し、「確信を持って誤る」層の存在が政治的分極を強化すると述べる。
行動反応:無視か介入か
偽情報に直面した際の行動で最も多かったのは「無視する」(44%)。次いで「信頼できる人と議論」(25%)、「他メディア照合」(25%)、「検索」(20%)、「ファクトチェックサイト利用」(15%)。能動的な反応は少数派にとどまる。
年齢が若いほど「無視」は減り、照合・検索・警告・苦情といった介入行動が増える。リテラシー教育経験者では「照合」29%、「検索」23%、「FCサイト」20%、「警告」9%、「苦情」7%と、全項目で非経験者を上回った。行動差を説明する主因は内的政治効力感の高さであり、自分の理解と行動が政治に影響し得るという感覚が、検証行動を誘発している。外的効力感(制度が正すという信頼)は逆に無視行動と結びつく。報告書は「制度への依存が個人の検証を抑制する」という逆相関を指摘している。
インタビューの証言:嫌悪と疲労のなかで
35件のインタビュー記録は、数値の背後にある心理的反応を照らしている。多くの回答者は「誇張された広告」「攻撃的メッセージ」を“偽情報”と同義に語り、事実誤認よりも操作的言説を問題視した。SMSや自動音声メッセージの氾濫は「侵襲的」と受け取られ、政治広告の過激化が「真実性」そのものを損ねると感じる人が多い。
「情報が多すぎて判断できない」「誰も本当のことを言っていない」といった諦観も頻出する。報告書はこの状態を「疲労による脱関与(disengagement through fatigue)」と定義し、偽情報の影響は誤信よりも“判断放棄”を通じて現れると論じる。
規制態度:真実広告法への圧倒的支持
偽情報拡散に懸念を抱く人は75%。政府による制限支持70%、プラットフォームによる制限支持75%、成人向けリテラシー教育導入支持69%。最も顕著なのは「政治広告の真実性法制(truth in political advertising law)」導入支持83%である。
政治的立場による対照も興味深い。右派は偽情報への懸念が最も強いが、規制・教育への支持は最も弱い。左派は懸念がやや低いが介入支持は高い。報告書はこの非対称性を「表現の自由の価値付けの違い」と整理し、国家規制だけでなく広告の出所表示やメタデータ保全、アーカイブ制度といった透明化措置を提案する。
まとめ:アクセスと能力の二重インフラ
最終章は、偽情報対策を「アクセス」と「能力」の二重の基盤として整理する。第一に、公共放送や選挙管理機関のような信頼源へのアクセス保証。第二に、個人が情報を検証できる能力。両者が揃って初めて耐性が形成される。
報告書が強調するのは、偽情報の主要源がSNSではなく政治家・政党であるという点だ。この構造を前提に、対策はプラットフォームの削除やラベリングだけではなく、政治広告の透明化・証跡表示・広告アーカイブ制度へと拡張されるべきだとする。
選 挙期に見えたのは、誤情報そのものよりも、信頼の空洞である。情報を受け取る経路と信頼の拠り所がずれ、制度的発話も信用を失う。その結果、人々は「検証」より「無視」を選ぶ。NMRCの調査は、この退行を数値と語りの両面で描き出し、民主主義の疲弊を実証的に記録した。

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