Wikipediaは「中立的な観点(Neutral Point of View, NPOV)」を掲げる百科事典として広く利用されている。しかしその“中立”は、誰がどのように記事を編集しているかによって、大きく揺らぐ可能性がある。2025年3月18日に米国の反ユダヤ主義対策団体ADL(Anti-Defamation League)が公表した報告書「Editing for Hate」は、まさにこの問題を照らし出している。
この報告書は、Wikipediaにおける反ユダヤ・反イスラエル的なバイアスの拡散を詳細に分析したものだ。ただし注意すべきは、報告書自体がADLという立場から作成されており、イスラエル側の視点に立って構成されているという点である。中立性そのものが争点となる以上、本稿ではその視点に自覚的になりながら、提示された事実や構造的な問題に焦点を当てて紹介していく。
編集は誰の手にあるのか?
ADLは、Wikipedia上でイスラエルやユダヤ人に関連する記事を長年にわたって編集してきた30人の「悪意ある編集者」グループを特定した。彼らは次のような異常な編集パターンを示していた:
- 編集数は他グループの2倍以上
- 同じ記事への短時間での連携編集(1時間以内)が71,000回以上
- 編集に関する投票での一致率は90%以上
また、これらの活動は2023年10月7日のハマスによるイスラエル襲撃事件以降に急増している。つまり、情報空間においても戦争が展開されていたことになる。
何が書き換えられたのか?
報告書は、実際に行われた編集の具体例をいくつか紹介している。その中でも特に注目すべきは、暴力やヘイトに関する記述が削除された事例である。
サミール・クンタールのページ改変
1979年にイスラエル市民を殺害したレバノンのテロリスト、サミール・クンタールのページでは、殺人とテロに関する有罪判決の記述や、シリア・イランでの英雄視、米国によるテロリスト指定といった記述が削除され、代わりに「無実を主張していた」という本人の発言だけが残された。
ハマスの記事における表現の調整
ハマスのページでは、「多くの国がハマスをテロ組織に指定している」という記述が冒頭から4段落目の末尾に移動され、リード部分は「イスラム的文脈におけるパレスチナ民族主義を掲げる組織」としてのハマスの側面が強調されている。テロ行為に関する記述は大幅に削除されていた。
ナチスの鉤十字と「焼き尽くしたい」という発言の削除
「パレスチナの政治的暴力」に関するページでは、2018年のガザ抗議でナチスの鉤十字を描いた凧を飛ばした少年が「イスラエルを焼き尽くしたい」と語ったエピソードが削除された。
いずれも、パレスチナ側の暴力性や反ユダヤ的な表現に関する記述を排除する方向で編集がなされている。
アラビア語版Wikipedia──プロパガンダとの境界
英語版Wikipediaだけでなく、アラビア語版Wikipediaでも中立性の問題は顕著だと報告書は指摘する。特にハマス関連の記事においては、以下のような問題があるという:
- 自爆攻撃を「殉教」として称賛
- 女性を「ジハードの担い手」として称える
- ハマスの地下トンネル網を「昼夜を問わず建設された成果」として賞賛
- イスラエルによる非難に対して「欧州が“ユダヤ問題”を避けている」とする記述
これらの記述には出典がほとんど付されておらず、一部はリンク切れであり、Wikipediaが求める出典の信頼性基準を満たしていない。
出典操作という情報戦
ADLは、これらの編集が単に「何が書かれているか」だけでなく、「どのような出典が用いられているか」にも大きく関わっていることを指摘している。
たとえば、問題視された編集者たちが多用していたサイトには以下のようなものが含まれていた:
- PalestineRemembered.com(反シオニズム的主張が中心)
- Al Jazeera(ハマス寄りとされる報道機関)
- 歴史的なパレスチナの国勢調査など、解釈によってナラティブを構築できる一次資料
一方で、査読付き論文や主要メディアの報道などは削除されるケースが多かった。
編集という見えない戦場
この報告書が示しているのは、Wikipediaの中立性が編集者の善意や議論の形式によって維持されるとは限らないという点である。協調的な編集行為や出典の操作は、制度的な脆弱性を突く形で積み重ねられ、結果として一方的なナラティブを形成しうる。
報告書はイスラエル寄りの立場から構成されており、パレスチナ側の視点に関するバランスを欠いている点は留意すべきである。しかし、示された具体例や編集履歴の分析は、Wikipediaにおける中立性維持の限界と、制度的対応の必要性を明確に示している。
特に、現在のWikipediaの編集制度はボランティア依存かつ分散的であり、信頼性の検証や編集の統制が追いついていない。悪意ある編集がAIや検索エンジンによって拡散されるリスクも高まっている。
情報の中立性は、理念ではなく制度と実装によって初めて維持される。Wikipediaが今後も公共的な知識基盤としての信頼性を保つためには、より精緻な監視体制と専門的介入の制度化が不可欠である。
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