2024年秋、バルト海の海底ケーブルとガスパイプラインが相次いで損傷した。原因は「商船の錨」。ただし、自然現象ではない。ロシアの運航する商船が故意に落としたものだった。船は中国籍だが、乗組員はロシア人。そしてその船を遠巻きに追尾していたのは、ロシア国営の核動力船だった。
これは単なる事件ではない。意図された攻撃だ。しかも、宣戦布告も銃撃もない。
2025年3月、米戦略国際問題研究所(CSIS)は、こうした一連の行為を分析したレポート『Russia’s Shadow War Against the West』を発表した。そこに描かれていたのは、ロシアが欧州・米国に対して行っている目に見えにくい戦争の全貌だった。ミサイルの代わりに火災。兵士の代わりに匿名の協力者。標的は、インフラ、通信網、輸送システム、企業、そして個人。
この“影の戦争”は、すでに始まっている。そして、それに気づかないことが最も危うい。
増え続ける「見えない攻撃」
CSISは、2022年から2025年初頭にかけて欧州で確認された52件の攻撃行為を記録している。それらの多くは爆発、火災、ケーブル切断、GPS妨害といった手段で行われており、「戦争」というより「事件」のように見える。だが、頻度とパターンを見れば、その実態は明らかに国家主導の作戦行動だ。
件数の推移:
- 2022年:3件
- 2023年:12件
- 2024年:34件
標的の内訳:
- 交通(27%)
- 政府機関・軍施設(27%)
- インフラ(21%)
- 産業(21%)
そして特筆すべきは、これらの多くがウクライナ支援に関与する組織や個人を狙っていることだ。たとえば、弾薬を製造していた英国・ドイツの工場、ウクライナ兵を訓練していた米軍基地、武器供給を担う企業幹部への暗殺未遂などが含まれる。
手口の多様化と“誰がやったか分からない”構造
ロシアの攻撃は、旧来のスパイ活動とは異なる。破壊の意図が明確にありながら、誰が行ったのか分かりにくいよう緻密に設計されている。
- 火災や爆発を装った攻撃:ドイツ・英国・スペインの兵器関連施設で発生した火災や爆発の多くが、ロシアによる関与が疑われている。たとえば、スペインの倉庫で発生した爆発では、ウクライナ向け通信機器が保管されていた。
- 郵便に仕込まれた発火装置:2024年、DHLの物流拠点(ドイツ・英国・ポーランド)で、電気マッサージ器に偽装された発火装置が発見された。内容物は航空機内で消火不能とされるマグネシウム。調査当局は「アメリカやカナダ行きの輸送網を試験的に攻撃した可能性がある」と見ている。
- GPS妨害と通信遮断:北欧諸国では、ロシアから発信された妨害電波により、旅客機が進路を外れたり、着陸不能になる事例が発生している。また、複数の国で海底通信ケーブルが商船の錨によって損傷。偶然ではなく、座標データをもとに綿密に狙われていた。
- 移民の流入を利用した政治的圧力:2021年以降、ロシアとベラルーシは中東やアフリカからの移民を利用して、ポーランド、フィンランド、リトアニアとの国境に人道的・治安的混乱を意図的に引き起こしている。
背後にいるのは誰か? どこまで国家が関与しているのか?
レポートによれば、これらの攻撃はすべてロシア国家による指揮のもとで行われている。
中心的な役割を果たすのは、ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の以下の組織:
- Unit 29155:毒殺、暗殺、爆破など直接的な行動を担う
- Unit 54654:海外での長期潜入、ビジネスや学術界への浸透
- Unit 26165(Fancy Bear)、74455(Sandworm):サイバー攻撃とインフラ妨害
さらにFSB(連邦保安庁)、SVR(対外諜報庁)、GUGI(深海研究総局)など、複数の機関が連携して、政治・軍事・情報のあらゆる領域で活動している。
現場での実行犯は、犯罪組織、外国籍の協力者、オンラインで勧誘された若者たち。Telegramやオンラインゲームを通じて「一度だけの仕事」を引き受けさせる構造が確認されている。責任の所在を曖昧にすることで、西側の反応を抑制する狙いがある。
西側の対応──守ることはできても、止めることはできていない
レポートは、西側の対応を「防御的すぎる」と批判している。情報共有、監視強化、スパイ追放、インフラ保護。すべて必要だが、それだけではロシアの行動を変えさせることはできない。
たとえば、NATOが海底ケーブル保護のために展開する「Baltic Sentry」作戦は、可視的な対抗措置だが、攻撃そのものを抑止できているとは言いがたい。多くの攻撃は、依然として発生し続けている。
CSISの提案──痛みを伴わせなければ、抑止にはならない
報告書が最も強く主張するのは、「ロシアにとって攻撃することが割に合わないと思わせなければ、抑止は成立しない」という点だ。
提案されているのは:
- 影の艦隊(制裁逃れの商船)への拿捕・制裁の徹底
- ロシアのエネルギー・軍需インフラへのサイバー攻撃
- ロシア国民・周辺国に向けた情報戦
- 中立国への二次制裁による包囲網の強化
重要なのは、これらの措置が「攻撃の対価」であることをロシアに認識させること。対話や防御では足りない。「静かな戦争」に対しても、代償を見せつける戦略が必要だという立場だ。
おわりに──これはまだ“戦争”ではない、と思うことの危うさ
爆撃もミサイルもない。だが、通信が切られ、物流が止まり、火災が起き、暗殺が試みられる。
それを“戦争ではない”と片付けるのは簡単だ。しかし、それはロシアにとって最も都合のよい受け止め方でもある。
このレポートが示しているのは、「見えない戦争」がすでに始まっており、その主戦場が情報、物流、政治、社会のあらゆる縫い目にあるということだ。
そして最も深刻なのは、それに気づかない、あるいは気づいても反応しないという構造そのものである。
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