AI基盤の非対称性──世界銀行『Digital Progress and Trends Report 2025』が描く四層構造と国際格差

AI基盤の非対称性──世界銀行『Digital Progress and Trends Report 2025』が描く四層構造と国際格差 AI

世界銀行のレポート「Digital Progress and Trends Report 2025: Strengthening AI Foundations」(2025年11月)が描くのは、AI の国際格差を「技術の差」ではなく「基盤の層構造の差」として把握する立場である。AI モデル開発の 87%、AI スタートアップの 86%、VC 投資の 91% が高所得国に集中し、AI 論文(54%)や GenAI 特許(32%)も同様に偏在している。しかし、報告書の焦点はこの数字そのものではない。これらの偏りは、Connectivity・Compute・Context・Competency の四つの基盤層が国家間で大きく異なることの結果であり、AI 活用の「到達限界」が最初から不均等に決まっているという構造的事実が本書の中心となる。

Small AI が示す「到達可能範囲」

 レポートは、農業・医療・教育などの基礎領域で使われる軽量モデル群を small AI として位置づける。病害虫識別、収量予測、症状聞き取り、教育教材生成などの事例が紹介されるが、本書が見ようとしているのは技術の多様性ではなく、small AI が導入されている理由そのものである。
低・中所得国における small AI の普及は、「技術が小さくても効果的」という話ではない。必要な計算資源(Compute)やローカル適合データ(Context)が欠けているため、small AI がその国における「到達可能な上限」になっている。このズレを起点に、報告書の議論は四つの基盤層へと展開する。

Connectivity──電力・通信・端末という前提条件の分岐

 Connectivity の層は、AI を動かす以前の物理的前提を扱う。低・中所得国では電力の瞬断、送電の不安定さ、固定ブロードバンドの未整備、都市と農村を分断するアクセス格差が日常的である。モバイルネットワークの品質も安定せず、端末普及率は家庭の所得階層によって大きく左右される。
 この層における構造的差異は、AI 活用の有無を決める基本条件となる。たとえば医療の triage AI、教育の個別学習 AI、行政サービスの分類モデルといった「定常的な利用」を前提とするアプリケーションは、電力・通信が断続する環境では成立しない。報告書が強調するのは、技術の高度化よりも前に、日常的に AI を動かせる物理環境があるかどうかが決定的な境界になるという点である。

Compute──ハイパースケール化するクラウドと計算資源の偏在

 Compute 層では、AI を学習・運用するための計算資源がどれほど地理的に集中しているかが、投資額とインフラ規模を伴って示される。Microsoft、Google、Amazon、Meta などの米系プラットフォームは、GPU クラスタとデータセンターへの巨額投資を続けており、AI 研究・企業向け AI サービス・生成モデル訓練の基盤がほぼ北米と中国に集約されている。
 多くの国は、国内にこの規模のデータセンターを保有していないため、大型モデルの学習は不可能であり、推論処理でさえ海外クラウドに依存する。Reported CapEx の規模が 100 億ドル単位になることからも、Compute 層の格差は「性能差」ではなく「計算能力へのアクセスの可否」というより根源的な形で現れる。Compute が欠ける国は、他の層が整っていても、AI の活用範囲が制度的・社会的に制限される。

Context──制度・言語・データのローカル接続面

 Context の章はレポートの中でも最も厚く、この層の欠落が AI 活用の構造的制約になる理由を細部まで分析している。行政データの電子化の遅れ、民間データの未統合、業務記録の紙ベース管理、ローカル言語資源の乏しさ、文化・制度文脈に特化したデータの不足などが、国ごとに異なる形で積み重なる。
 この層が弱い国では、モデルの微調整や意味理解が困難になり、AI の精度以前に「そもそも適用可能性が低い」状況が生じる。医療・農業・金融・行政業務などの領域では、ローカル制度の解釈や専門語彙の理解が不可欠であるため、Context の不足は応用範囲全体を狭める。報告書は、データの量の問題ではなく、ローカル環境との体系的接続が欠けていることが AI の機能不全を引き起こすと位置づけている。

Competency──需要の急増と供給の偏在

 Competency 層では、求人データに基づき、AI スキル需要がどの地域でどのように拡大しているかが分析される。2021〜2024 年の間に GenAI スキル需要は 9 倍に増加し、AI 関連求人は中所得国で最も速く伸びている。一方で、ICT 専門家の 57% は米国・中国・インドに集中し、低所得国ではデジタル基礎スキル保有率が 5% 未満である。
 報告書が重要視しているのは、オンライン求人データ自体が英語圏・欧州語圏に偏る点である。日本・韓国・中国や東南アジア、アフリカの多くの国では、求人がオフラインで行われるため、統計が実態を過少に捉える“不可視化”が発生する。Competency 層では、人材供給の不足だけでなく、「測定方法の偏在」までもがスキル格差の一部となる。

多層エコシステムの構造

 AI は単一のモデルではなく、データ取得、データ前処理、モデル開発、アプリケーション、AI デバイスという複数の層で構成されている。レポートは、Snowflake や Databricks などの前処理基盤、TensorFlow や PyTorch の開発基盤、Microsoft や Adobe の応用層、Tesla や Xiaomi のデバイス層を例示し、どの層が欠けても AI の供給網が成立しないことを示す。
 この層構造を利用して国ごとのエコシステムを比較すると、AI 活用が限定的な国では、前処理層やローカルデータ層が欠落しており、モデルの微調整や領域特化が進まないため、一般的な API 利用に依存する構造が固定化する。

技術動向と基盤条件

 マルチモーダル AI、高度推論、エージェント AI などの技術動向は、基盤条件の差が応用の可否に直結するという文脈で扱われている。基盤が整った国では、行政・医療・産業などで生成 AI を組み込んだサービスの拡張が急速に進む一方、基盤が不足する国では、最新技術へのアクセス自体が不可能となる。技術の進展が格差を縮小するのではなく、基盤格差があるかぎり、新技術はむしろ格差を拡大する方向に働くという点が強調される。

結論部に位置づけられる誤情報

 誤情報(misinformation / disinformation)は、本レポートの主要主題ではないが、AI リスク総論の一部として扱われる。生成 AI が誤情報を「ターボチャージし得る」点、意思決定や経済活動を歪める可能性がある点が、他のリスク(ミスアラインメント、サイバーセキュリティ、プライバシー、フェアネス、バイアス、著作権問題など)と並列に示される。誤情報は本書の議論の中心に置かれてはいないが、AI 基盤の非対称性が社会的リスクの表れ方を左右するという文脈に位置づけられている。

四層構造としての総括

 レポート全体を貫くのは、Connectivity・Compute・Context・Competency の四層が連動し合うことで国家の AI 能力の上限を決めるという構造的視点である。技術の優位性やモデル性能ではなく、基盤の整備度合いこそが決定要因であり、どれか一つが欠ければ他の層が整っていても AI 活用の深度は上がらない。四層の非対称性は、経済格差・技術格差・情報格差のすべてと結びつき、将来の AI 地政学を形づくる基盤となる。本書は、AI の国際構造を理解する際に、モデル中心の視点だけでは不十分であり、基盤の層構造を読むことが不可欠であることを明確に示している。

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