NATO(北大西洋条約機構)の科学技術機構(STO)は、2045年までの長期的な科学技術動向を俯瞰する報告書『Science and Technology Trends 2025–2045』を2025年4月9日に発表した。この報告書は単なるテクノロジーのカタログではない。むしろ、技術がどのように地政学的競争、軍事、経済、安全保障の構造を変化させつつあるかを多層的に分析した、NATOの戦略文書としての性格を持っている。
Volume 1では、今後20年間で安全保障環境を決定づけると予測される6つのマクロトレンドが提示されている。AI、量子技術、生物工学、資源と気候、社会の信頼、技術依存。これらはいずれも軍事的な意味だけでなく、国家・市民・民間企業の関係そのものを揺さぶるものである。
このなかでとりわけ注目すべきは、「偽情報」や「情報工作」が、従来の“非軍事的問題”ではなく、戦略環境の構成要素の一部として位置づけられている点にある。
「信頼」はもはや戦略資源である
本報告書では、「Fragmenting Public Trust(公共信頼の分断)」という章が設けられている。ここで語られるのは、単なるフェイクニュースやSNSのアルゴリズム問題ではない。むしろ、科学・政府・メディア・民主制度に対する信頼そのものが戦略的標的になっているという認識である。
AIによって生成されるテキスト、画像、動画、音声──こうした偽情報の技術的進化が、「何が本当か」ではなく、「誰が信じられるか」という問題に重心を移動させている。そしてこの「信頼」を崩すことが、軍事力を使わずに社会の統治構造を揺るがす最も効果的な手段になっている。
NATOはこの傾向を、ハイブリッド戦の中核と見なしている。偽情報はもはや戦場の外にあるのではなく、戦場そのものの一部である。
AIとディープフェイクの軍民融合
また、別の章である「Race for AI and Quantum Superiority」では、AIと量子技術をめぐる地政学的な優位争いが描かれている。ここでも、偽情報との接点は明確に示唆されている。
AIによって、フェイクは自動生成され、拡散され、パーソナライズされる。その規模と速度は、人間のファクトチェックの範囲を完全に超えており、「現実そのものを捏造できる能力」が現実化している。量子暗号技術の進展によって、逆に追跡や検証が困難になる可能性すらある。
そしてこの競争は、国家と国家の間だけではなく、国家と企業の間、国家と市民の間にも非対称性を生む。つまり、偽情報の生成と抑制の力の不均衡が新たな安全保障の断層線となりつつある。
情報操作は戦術ではなく「戦略」になった
この報告書が示す最大のメッセージは明快である。偽情報や情報操作は、もはや補助的な手段ではなく、戦略的環境を形成する要素そのものになったということだ。
信頼はインフラであり、情報空間は戦域であり、アルゴリズムは兵器である。こうしたパラダイムのもとで、従来の「対策」や「リテラシー」だけでは不十分になるのは明らかである。
偽情報対策にとっての含意
本報告書を読むことで、我々が向き合っているのは「情報」ではなく、「戦略的構造の変化」だということがよくわかる。つまり、偽情報は“悪意あるコンテンツ”の問題ではなく、認知・制度・統治の構造的な脆弱性を突く設計の一部として位置づけられている。
この認識のもとで初めて、「教育」「規制」「アルゴリズム」「インフラ」「外交」が一体となった全方位的アプローチの必要性が見えてくる。
まとめ
『Science and Technology Trends 2025–2045』Volume 1は、偽情報の問題を科学技術トレンドという戦略環境の中に制度的に位置づけた文書である。専門家がこの報告書に目を通すべき理由は、個々のフェイク事例を扱うためではなく、それがどのような構造と論理の中で機能しているかを理解するためである。
今後の実務や政策設計において、この「構造の認識」は不可欠になるだろう。
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