2025年9月、Casimir Pulaski Foundation は『Agents of Chaos: The Shadow Campaign Against the West』を公表した。本報告書は、ロシアおよびベラルーシの情報機関が、欧州各国に対して実行しているハイブリッド作戦を「認知戦(cognitive warfare)」として再定義し、物理・心理・制度・情報の領域を横断する攻撃アーキテクチャを体系化した点に独自性がある。とりわけ重要なのは、作戦が偽情報単体ではなく、微小破壊工作、代理実行者のトークン化、物語工学、AI駆動の自動化されたCogOpsを結びつけ、事件・ナラティブ・制度反応を循環させる一貫した構造を備えていることである。分析対象の地域はポーランド・バルト諸国・フランス・英国を含む欧州広域で、各国で発生した多数の具体事案が一つのフレームワークの下に位置づけられている。
認知戦への転換――「物理的曖昧性」から「心理的曖昧性」へ
報告書の出発点は、ハイブリッド戦の変質である。2014年のクリミア併合に象徴される「物理的匿名性」に基づく初期段階のハイブリッド戦――Green Men、無標識兵、代理武装勢力によるインフラ占拠――は、国家関与の不明確化を中心に据えていた。しかし現在の作戦は、同じ不明確化を「心理の領域」に転換している。攻撃対象は国家領土ではなく、社会が“真偽を判別し、感情を整理し、現実を共有する”プロセスそのものに向けられ、報告書はこれを「エピステミック・ディスオーダー」と記述する。武力ではなく、認知・情動・解釈能力を攪乱することによって、社会の協調行動を阻害する点が特徴であり、物理空間の占領から、情報空間と感情空間の占領へと戦域が再編されている。
東側の「破壊の正統派」――思想のインフラストラクチャ
報告書は、ロシアの作戦思想を支える複数の理論的源流を整理している。Gleb Pavlovsky は矛盾する情報を大量に提示し、受け手を疲弊させる「メディア劇場」を構想した。Vladislav Surkov は非線形政治を唱え、国家が同時に相互矛盾するナラティブを流通させることで、真実性の依拠点そのものを消滅させる手法を理論化した。Aleksandr Dugin は情報を形而上的戦争とみなし、宗教的・文明論的物語を通じてリベラル民主主義の知的基盤を掘り崩す枠組みを提示した。さらに Valery Gerasimov は、政治・経済・社会的手段を複合させ、軍事手段を補助的に組み込む「新しい紛争の構造」を描写した。これらの思想は、情報機関が真偽を争点とする従来型のプロパガンダから離れ、社会構造の攪乱・制度不信の誘発・認知疲弊の蓄積を目的とする長期戦略へと移行したことを理解するうえで不可欠である。
三層モデル――知覚破壊アーキテクチャの実体
報告書の中心は、ロシアおよびベラルーシの情報機関による攻撃を三層のアーキテクチャとして整理した部分にある。
Layer 1:Cognitive Infiltration
第一層は、公的議論空間への心理的に強力なナラティブの浸透である。ここでは、制度不信、難民嫌悪、NATOの“挑発”、政府無能論など、既存の社会的亀裂を利用しつつ、それらを感情的に増幅させる物語が注入される。報告書が示す代表例は、2025年ポーランド大統領選挙の直前に展開されたウクライナ難民ナラティブ操作である。XやTelegram のポーランド語圏コミュニティに、偽造された統計、AI生成の難民イメージ、地元紙を模したローカルニュースサイトが投入され、ウクライナ難民を「国家財政の負担」「治安リスク」「人口構造の脅威」と位置づける言説が多層的に循環した。拡散経路はディアスポラ隣接のチャネルから始まり、国内生成の言説であるかのように偽装される。重要なのは、この層の目的が説得ではなく、情緒疲弊・真偽相対化・制度不信の漸増ダメージである点である。
Layer 2:Tokenization of Operatives
第二層は、物理的サボタージュの実行者を「トークン化」するメカニズムである。情報機関は、訓練された諜報員を展開するのではなく、経済移民、犯罪者、政治不信層、精神疾患を抱える個人など、将来性のない“disposable”な人間をオンラインでリクルートし、暗号通貨で報酬を支払う。倉庫火災、鉄道ロジスティクスの妨害、軍基地付近のドローン撮影などの事件は、実行者の背景を「鉄道愛好家」「YouTuber」「地元犯罪グループ」といった物語で覆い隠すことで、政治性を低減させる。意図(情報機関)と実行(使い捨て工作員)の分離により、国家の関与を痕跡レベルまで薄める点がこの層の核心となる。
Layer 3:Expanding Scalable Disruption
第三層は、低強度の微小事件が累積し、危機対応能力を過負荷にする構造である。各事件は単体では犯罪や事故と見分けがつかないが、一定のリズムで連続し、情報空間での操作と同期することで、社会全体の解釈能力を損なう。
作戦類型の全体像――Fires から Falsehoods まで
報告書は、具体的な作戦類型を六つに区分している。Sabotage & Diversion では、英国の倉庫火災、鉄道障害、軍施設周辺のドローン侵入などの低強度破壊が示され、これらは多くの場合、事件直後に「政府の隠蔽」「国家の無能」「NATOの挑発」のナラティブと結合する。Outsourcing Espionage は、第二層で述べたトークン化された実行者の利用である。CogOps & Disinformation には、ポーランド選挙での偽ローカルメディア、AI生成画像、感情誘導文面が含まれ、さらにフランスでは 193 の偽ニュースサイト(Portal Kombat / Doppelgänger)が実在メディアと同一のロゴ・配色・レイアウトを模倣し、パリ五輪や欧州選挙を標的にした偽動画・偽記事を配信した。英国ではローカル市民団体を装ったSNSページが反ウクライナ抗議を誘発し、政府は Social Design Agency 等を制裁対象として名指しした。Weaponization of Diasporas は、ディアスポラのコミュニティを情報伝播ノードとして利用する戦術である。Tech Advancements in Software では、AIによる大量生成、クローニング音声、テンプレート型動画が言及され、Operation Overload のような多プラットフォーム同時攻撃が具体例として挙げられる。Tech Advancements in Hardware は、小型ドローンや盗撮機材による低可視性の監視と干渉を含む。
五段階ナラティブ‐作戦サイクル――事件と物語の同期構造
報告書の独自性が最も明瞭に現れるのが、この「五段階サイクル」である。第一段階の Narrative priming では、NATO“挑発”、制度の腐敗、難民優遇、政府無能といったフレーミングが先行投入される。第二段階で Kinetic marker が発生する。倉庫火災、鉄道妨害、ドローン侵入など、被害規模は大きくないが、曖昧な意図をもつ事件が選ばれる。第三段階の Narrative coupling では、事件を先行ナラティブに強制的に接続し、「政府の隠蔽」「NATOの挑発」「国家の無能」などの解釈がSNS空間に埋め込まれる。第四段階では制度反応が利用される。政府広報の矛盾、警察発表の遅延、メディアの不一致が「欺瞞」「無能」の証拠として再利用され、事件は制度不信の燃料となる。第五段階で Reset が行われ、同規模の微小事件が新たに投入され、全過程が再起動する。この循環は単発の破壊ではなく、信頼の漸減スパイラルを形成し、社会の認知的安定性を長期的に弱める。
西側の盲点――四つの制度的欠陥
報告書は、西側諸国が依然として旧来型の脅威モデルに依存している点を主要な問題として指摘する。第一に Cognitive deficit がある。小規模事件を犯罪、偽情報を情報操作として別々に扱い、両者が結合してフィードバックループを形成するという構造を統合的に把握できていない。第二に Systemic gap がある。カウンターインテリジェンス、サイバー防衛、国内政策が分断され、攻撃側が複数領域を跨ぐと追跡が困難になる。第三に Interoperability deficit。欧州加盟国間でのデータ共有が限定され、事件の連続性が可視化されない。第四に Regulatory void。外国の影響力行使を透明化する法制度(米国のFARAに類する仕組み)が存在せず、偽メディア運営や資金流を把握しづらい。この四つの欠陥は、事件・ナラティブ・制度反応の循環を止められない理由として位置づけられる。
認知防衛の再設計――報告書が提示する方向性
報告書は、認知防衛を中核に置く攻勢的姿勢への転換を提案する。AI・OSINT・ナラティブ分析・情動トレンドの組み合わせによる認知早期警戒システム、ロシア・ベラルーシの亡命者コミュニティを反影響力資産として組成する仕組み、欧州版FARAとして機能する外国影響力登録制度、象徴的反転やmemetic技法を含む限定的反撃作戦、そして NATO・EU の危機計画に認知戦シミュレーションを組み込むことが挙げられている。三層モデルと五段階サイクルが示すように、攻撃は長期・累積・多領域であり、防衛側が反応に遅れ続ければ破壊は低コストで継続可能となる。防衛の焦点は、情報削除や事実提示ではなく、循環のどこで介入し、どの層の構造を切断するかの制度設計に移行する必要がある。
おわりに
本報告書が強調するのは、認知戦の勝敗は攻撃者の強さではなく、防衛側の惰性と制度疲弊によって決まるという点である。攻撃の主戦場は領土ではなく信頼であり、事件の規模ではなく、事件と物語と制度反応が作る循環構造が破壊力をもたらす。ロシアおよびベラルーシの情報機関が展開する三層アーキテクチャは、西側の制度的断絶を突き、低コストで持続的な社会的疲弊を実現する。これを正確に理解し、複数領域の統合的な認知防衛へ移行しない限り、欧州社会は断片化と不信の累積圧力に晒され続けることになる。


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