ナラティブが作る「移民危機」——EU報告書が示す構造と戦略

ナラティブが作る「移民危機」——EU報告書が示す構造と戦略 ヘイトスピーチ

 欧州委員会共同研究センター(JRC)が2025年に発表した報告書『Navigating Migration Narratives』は、移民をめぐる言説がいかに構造化され、拡散され、政治的・社会的現実を形成しているかを多角的に解明した一冊である。本稿ではその構成に沿って、ナラティブの分類、感情的な訴求、偽情報との結びつき、そしてそれらに対抗するための公共コミュニケーション戦略を整理する。

メディアが作る六つの「語りの型」

 報告書は、EU域内で確認された主流メディアにおける移民ナラティブを、以下の6つの枠組みに整理する。

  • 連帯フレーム:移民を助け合いの対象とする。
  • 人道フレーム:移民を保護されるべき被害者と描写。
  • 経済利益フレーム:労働市場における貢献を強調。
  • 実用フレーム:制度的管理の必要性を前面に出す。
  • 脅威フレーム:治安・文化へのリスクとして位置づけ。
  • 危機フレーム:制御不能な緊急事態として描く。

 これらはしばしば混合され、状況やメディアの立場によって使い分けられる。たとえば「シリア難民危機」報道では、人道と危機のフレームが交差した。これらのナラティブは特定の価値観に訴えるかたちで受容されやすくなり、社会の分断線と結びつく。

ナラティブはどのように「納得感」を獲得するか

 JRCは、ナラティブの説得力の鍵は「感情」「認知的一貫性」「価値の共鳴」にあるとする。特にネガティブな感情(怒り・恐怖)は、情報の正確性を無効化し、対話を阻害することが実証的に示されている。たとえば、移民による強姦事件を報じたニュース映像と統計データを併置しても、感情が先に触発された場合、統計の説得力は消失する。いわゆる“rage farming”がここで作用する。

ポピュリズムの語り:我々 vs 彼ら

 報告書第3章では、SNS上でのポピュリスト指導者の発信を分析し、11のスーパー・ナラティブと52の個別ナラティブを抽出している。その中で最も頻出するのが「我々 vs エリート」の枠組であり、移民問題を既存の体制やEU官僚主義への攻撃の手段として利用している。例えば、マリーヌ・ル・ペンの投稿は、「EUが移民を送り込んでいる」という陰謀論と国民投票の要求を組み合わせていた。

このようなナラティブは、単に「移民をどう見るか」ではなく、「誰を信用するか」「誰に政治を委ねるか」といった統治の正統性に関わる争点を移民問題に埋め込む手法として機能する。

偽情報:三つの構造フレーム

 偽情報分析に特化した第4章は、移民にまつわる偽情報が以下の三つの構造に集約されることを示す。

  • 健康の脅威:COVID-19期に蔓延した「移民が感染拡大の原因」とする言説。
  • 経済の脅威:移民が福祉を浪費し、住宅や就労機会を奪うという語り。
  • アイデンティティの脅威:イスラーム化、文化的侵略、人口置換(Great Replacement)といったナラティブ。

 このうち、健康・経済ナラティブは事実の歪曲や過剰一般化によって構築されるが、アイデンティティ型はしばしば宗教的・民族的本質主義を含み、陰謀論と結びつきやすい。たとえば「ウクライナ避難民が癌病棟を占拠して地元住民の子供が追い出された」という情報は、根拠がないにも関わらず感情的訴求力が強く拡散された。

「気候移民」はなぜ誤読されるのか

 ケーススタディ1では、気候変動が引き起こす移動に関するナラティブを分析。特に「気候難民による大量流入」説が国際機関によっても過剰に引用され、警戒と防衛のレトリックを誘発してきたことが指摘されている。Gallup World Pollによる調査では、実際に「気候問題で移動が必要と考える人」のうち「国外に移住を望む人」は35%にとどまり、実際に行動に移す人はさらに18%程度に過ぎない。ナラティブと実態との乖離が明確に示される好例である。

社会的公正感と制度信頼の関係

 第5章では、移民に対する態度が「移民そのもの」よりも「制度の公平性」に大きく依存することが明らかにされている。JRCの8カ国調査では、「自国民と比べて移民が優遇されている」と感じる場合、制度への信頼が下がり、排他的態度が強まる。公平性という主観が、数値ではなくナラティブを通じて構成される点に注目すべきである。

公共コミュニケーションに求められる十の原則

 第6章では、移民問題に関する公共コミュニケーションにおいて、信頼の構築を中心に据えるべきとし、以下の戦略が提起される。

  • 「意見を変える」より「知る手段を提供する」ことを重視する。
  • メディアとの連携による誤情報の事前阻止(pre-bunking)。
  • ターゲット別ではなく関心・価値観に応じたセグメンテーション。
  • 行動科学を利用したメッセージ設計と反応評価。

ここでは、「一律のメッセージは効果がない」と明示されており、むしろ制度側が「聞く耳」を持つ姿勢自体が信頼構築に寄与するという、民主主義的な対話の重要性が確認される。

構造を理解することが対抗策になる

 この報告書の最大の成果は、移民問題をめぐるナラティブが単なる「言説」ではなく、選択的現実構築の装置であり、特定の価値観、感情、制度信頼と直結していることを実証した点にある。特定の事例(犯罪、住宅、福祉)は、数値だけでなく意味づけの枠組み——つまりナラティブ——によって過剰に一般化され、政策選好や投票行動をも規定してしまう。

 対抗の鍵は、反ナラティブの拡散ではなく、ナラティブの構造そのものへの理解と、その背後にある価値観・情動のマッピングである。本報告書は、偽情報やポピュリズムに対する「構造的防衛」の道筋を示した稀有な資料である。専門家による分析の足場として、また制度設計・メディア設計の原理検討の素材として、高度な価値を有する。

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