フィリピンは二度、女性を国家元首に選出した数少ない東南アジアの国である。しかしそれにもかかわらず、女性が政治に参加することそのものがいまだに「異質」であるかのように扱われる現実がある。フィリピンの市民社会団体 Foundation for Media Alternatives が2025年6月に公開した報告書『Gendered Disinformation in Philippine Politics』は、この現実の根底に、構造的かつ反復的に流通する「ジェンダー化された偽情報」が存在することを示す。これは単なるネット上の嫌がらせではなく、女性の政治的可視性を制度的・文化的に制限する言説操作の体系である。
歴史的系譜としての性差別と偽情報
報告書の冒頭で引用されるのは、1986年の大統領選におけるフェルディナンド・マルコスSr.による、対立候補コラソン・アキノへの蔑視発言である。そこでは「内気な女が男に挑戦するな」という明確な性別に基づいた攻撃がなされていた。だが、それは単に過去の一幕ではない。現在に至るまで、こうした性差別的言説は、より洗練された手段──とくにインターネットとSNSという拡散装置──によって再構築され、繰り返されている。報告書は、それらが構造的な「神話」に基づいており、政治的女性への偽情報の形式を定型化していると指摘する。
「4つの神話」──政治的女性に対する偽情報のテンプレート
報告書は、フィリピンにおける女性政治家への攻撃が、以下の4つの「神話」を通じて組織的に展開されていることを示している。これらは文化的偏見に根ざした誤情報であると同時に、SNSやAI技術によって再生産される偽情報の枠組みでもある。
1|女性は感情的で無能、国を運営するにはふさわしくない
この神話は、知性や経験よりも性別を根拠として女性の指導力を否定する。たとえば、2022年選挙でのロブレド元副大統領に対する攻撃では、彼女の人権弁護士としての経歴や副大統領としての実績が無視され、「感情的」「弱い」「指導力に欠ける」といったレッテルが繰り返し貼られた。
現実には、フィリピン統計庁の調査により、女性の大学卒業率や識字率は男性を上回っている。にもかかわらず、教育水準や能力に関する偽情報がSNS上で広く共有され、政治参加を阻む口実として用いられている。
2|ハラスメントは当然であり、女性は耐えるべきだ
報告書で最も強調されるのが、レイラ・デ・リマ元上院議員に対する長期的な偽情報攻撃である。2016年、彼女が麻薬密売に関与しているとされる虚偽動画や写真が出回り、元運転手との関係を描いた性的スキャンダルまで捏造された。これらの情報は、司法調査により否定されたにもかかわらず、2024年になっても拡散が続いている。
こうした偽情報は、単なる名誉毀損ではなく、女性議員としての政策的発言権そのものを封じる機能を果たしている。国連の報告でも、オンラインでのハラスメントが現実の暴力や政治的沈黙をもたらすという因果関係が示されており、これは典型的な事例である。
3|女性は性的存在であり、政治力ではなく性で注目を集めている
2025年の選挙では、Pasig市の候補者Christian Siaが「寂しい時は抱いてやる」と発言し、女性の貧困や孤立を性的に利用しようとした。同様に、Misamis Oriental知事のPeter Unabiaが「美人だけが看護奨学金にふさわしい」と述べるなど、女性を性的価値で評価する言説が選挙戦で繰り返された。
さらに問題なのは、女性候補者であるMocha Usonが、自らのキャンペーンで性的な語呂合わせを含んだジングルを使用した点である。このことは、ジェンダー規範が内面化され、女性自身が女性蔑視の言説を再生産する構造を浮き彫りにしている。
4|女性政治家は裏にいる誰かに操られている
女性が政治的に自立しているとは認められず、父親や夫などの「影の実力者」によって担ぎ出されているという見方が根強く存在する。さらに深刻なのは、左派系の女性候補が「レッド・タギング」によって共産主義者として偽情報を流布される事例である。
2025年選挙では、12人の女性上院候補のうち6人がレッド・タギングの対象となり、AI生成による偽動画で武装勢力との関係を捏造された。France Castro候補は、こうした偽動画の削除を選挙管理委員会と通信省に求める公開書簡を出している。
偽情報と技術の結節点──SNS、AI、トロール軍
現代において、偽情報の拡散はプラットフォームの設計に大きく依存している。報告書は、AIによる音声・映像の偽造、SNS上の自動化された拡散ネットワーク、そして「トロール軍」による集団攻撃の組み合わせによって、個人が圧倒的な情報暴力に晒される構造を浮き彫りにしている。
とくに、偽情報の標的は政治家に限られない。薬物戦争の被害者遺族──とりわけ女性──が正義を求める声を上げると、たちまち性的中傷や人格攻撃の対象とされる。これは、「政治的発言をする女性」そのものが許されないという規範が、偽情報によって補強されていることを示す。
制度対応とその限界──COMELECの規制は機能しているか
選挙管理委員会(COMELEC)は2025年の選挙に際して、性差別的言動やレッド・タギングを禁じるResolution No. 11116を制定した。しかし、実際の運用においては、拡散された偽情報の削除や処罰がほとんど追いついていない。プラットフォーム側の責任回避、法制度の不備、被害者側のリソース不足が重なり、規制は機能不全に陥っている。
「政治的女性」だけではない──公共圏からの女性排除
報告書が強調するもう一つの重要な視点は、ジェンダー化された偽情報の被害者は政治家に限られないという点である。女性であるというだけで、発言や行動が「政治的」と見なされ、標的化される状況が存在している。
たとえば、2025年3月、ドゥテルテ元大統領の逮捕後に、薬物戦争の犠牲者遺族の女性がSNSで集中攻撃を受けた事件があった。これは、政治性の有無ではなく、「女性が公共圏で声を上げた」という事実それ自体が、攻撃対象となる条件であることを示している。
偽情報とジェンダーの交差点に立つために
この報告書は、偽情報研究にとって重要な示唆を与える。それは、ジェンダーという視点を欠いたままでは、偽情報が社会に与える影響を正しく把握できないという事実である。特定のナラティブ(神話)を通じて、誰が「合理的な主体」とされ、誰が「感情的・過剰・不正当」と見なされるかは、偽情報の内容だけでなく、その構造そのものに深く関わっている。
政治的女性を沈黙させるための偽情報は、民主主義そのものへの攻撃である。そして、それは特定の国や文脈に限定される問題ではなく、ジェンダー、プラットフォーム設計、AI技術、制度的対応のすべてが交差する、現代的な政治課題である。フィリピンの事例は、その交差点をもっとも鮮明に可視化するひとつの縮図として、注目に値する。
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