「Overload(過負荷)」という言葉は、かつては認知心理学の領域で語られていた。だが現在では、国家の意思決定構造そのものを機能不全に追い込む戦略的な攻撃手法として、この概念が再定義されつつある。
2025年6月にCheck Firstが発表した報告書『Overload 2』は、この構造変化を正面からとらえた実証的かつ制度批判的なレポートである。
本稿では、報告書の全体構造を押さえたうえで、特に注目すべき事例として「ゼレンシカ国外逃亡フェイク動画」の拡散過程を紹介し、最後に制度的課題として提起されている「情報処理構造の脆弱性」とDSA(EUデジタルサービス法)との関係に触れる。
「偽情報」はもはや「情報」ではなく「構造」の問題である
『Overload 2』は、ロシア系のFIMI(Foreign Information Manipulation and Interference)作戦である「Operation Overload」の実態を追跡した報告書の第3弾である。報告書の最大の主張は明快である──情報の真偽よりも、処理能力そのものを狙った過剰情報攻撃が制度を麻痺させている。
特定の偽情報を一つひとつ否定するようなファクトチェックでは、もはや十分ではない。Overload作戦は、メディアやファクトチェッカーをターゲットとして「検証に値するように見えるコンテンツ」を大量に流し込む。目的は「信じさせる」ことではなく、「時間とリソースを奪う」ことにある。
このような戦術が有効になる背景には、国家の意思決定構造が変質しているという構造的問題がある。情報収集が中央集権的ではなくなり、国家機関が「情報源」ではなく「情報の受け手」となってしまったことで、国家は“過剰な”情報に無防備な存在となった。
ゼレンシカ逃亡フェイク動画:なぜファクトチェックが拡散を促進するのか
報告書の中で極めて具体的に分析されている事例がある。2025年4月、ウクライナのオレーナ・ゼレンシカ大統領夫人が国外逃亡したとされる偽のBBC動画がX(旧Twitter)で拡散された事件だ。
事実関係の推移は以下の通りである:
- 最初の投稿はTelegram、その後Xへ。拡散元は親露系で認証バッジのあるアカウント(@peacemaket71)。
- 動画にはBBCのロゴが合成されており、あたかも公式のニュース映像のように見える。
- 拡散後、ウクライナ政府機関や国際的なファクトチェッカー(Lead Stories, Maldita, Newtral, Logically Factsなど)が即座に反応し、「フェイクである」と一斉に指摘。
- しかし皮肉なことに、この一連の検証行為により動画のリーチが爆発的に増加。元投稿は60万ビューから600万ビューへと跳ね上がった。
- さらに新たな偽動画が追加される。Deutsche Welle版、Al Jazeera版、そしてThe Scotsmanなど英紙を偽装した新聞画像などが次々に投稿され、ナラティブが“再構成”される。
この手法は報告書中で「Dynamic Narrative Reframing(動的ナラティブ再構成)」と呼ばれている。初期の偽情報にバリエーションを加え、同一テーマを多角的に展開することで、「1つのフェイク」を「複数の事例」へと変換する。
ファクトチェッカーの指摘がナラティブの終息ではなく「次の展開の起爆剤」になる──この構図こそが、現代の情報戦における最大の逆説である。
情報の「過剰」こそが制度のアキレス腱になる
Overload 2は、情報過剰がもたらす脆弱性を5つのリスクとして定義している:
- 判断の歪み(Distortion)
→ 雑多な情報の中で本質的な兆候が埋もれる - 過剰反応(Overreaction)
→ 不確実な情報に過敏に反応して誤った行動をとる - 警告無視(Neglect)
→ 情報が多すぎて、警告を無視するようになる - 構造的麻痺(Bottleneck)
→ 意思決定回路が飽和して機能不全に陥る - 敵による攪乱利用(Exploitation)
→ 上記の構造そのものが、敵によって意図的に悪用される
報告書が一貫して指摘するのは、「この問題は削除や検閲では解決できない」という点である。国家はもはや「何が本当か」だけでなく、「どう処理するか」を問われている。
制度対応としてのDSA:Xは法的義務を果たしているか?
報告書の後半では、EUのデジタルサービス法(DSA)が定める「制度的リスク(Systemic Risks)」に照らして、X(旧Twitter)などプラットフォームの対応状況が検証されている。
たとえば、以下の条項に関して重大な違反の可能性があると指摘されている:
- Art. 34:選挙干渉・暴力扇動などのシステミックリスクの防止
- Art. 35:重大リスクへの緩和措置の実施
- Art. 16:違法コンテンツの通報と対応手続きの整備
Xは2025年5月時点で、Overload関連のアカウントのうち244件中たった10%(25件)しか停止していないとされ、プラットフォームとしての対応不備が明確に示されている。
一方、後発の分散型SNSであるBlueskyでは、65%以上の関連アカウントが迅速に停止されており、対照的である。
「処理構造をどう設計するか」という問いへ
Overload 2は「フェイクニュース」を素材としつつも、その関心はきわめて制度的である。情報オーバーロードへの対応とは、情報を「削る」ことではなく、処理する制度をどう設計し直すかという問いに他ならない。
この報告書が示しているのは、偽情報とはもはや「誤った情報」ではなく、「制度の破綻を促すための構造的な演出」であるという現実である。
偽情報対策において、いま必要なのは削除でもラベリングでもなく、「信じない」ことよりも「揺らがない構造」を作ることだ。Overload 2は、そのための視座を提供している。
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