2022年2月末、欧州連合(EU)はロシア国営メディアRT(Russia Today)とスプートニクの放送を加盟域内で禁止する異例の措置を取った。表現の自由と報道の自由はEUの根本的価値のはずだが、この決定はそれらと明らかに衝突する。それにもかかわらず、加盟27カ国が短期間で合意に達した背景は何だったのか。
国際政治学者ソフィー・L・ヴェリテールは、2025年8月に公開された「The collective securitization of ‘disinformation’ and the EU’s ban on Russia Today and Sputnik」で、この決定を「集合的セキュリティ化(collective securitization)」理論を使って分析し、EUの安全保障政策の裏側を描き出している。本稿は、その分析のポイントを紹介する。
偽情報はどう「安全保障」になったのか
「偽情報(disinformation)」がEUの安全保障課題として正式に扱われるようになったのは、2014年のウクライナ危機がきっかけだった。ロシアによるクリミア併合やマレーシア航空MH17撃墜事件では、事実と異なる報道が両陣営で飛び交い、EU内部でもロシア発の情報操作が警戒されるようになる。
バルト三国やポーランドは、この脅威を「全EUの問題」として共有させるため、EEAS(欧州対外行動庁)内にEast StratCom Task Force(ESTF)を設置させた。この部局は、対ロシアプロパガンダの監視・反駁を行うEUvsDisinfoサイトで知られるが、設立当初から戦略的広報や独立メディア支援も任務としていた。
当初は外交・安全保障政策(CFSP)の枠内で扱われていたが、やがて欧州委員会のデジタル政策部門や司法部門も加わり、デジタルサービス法(2022年)や欧州メディア自由法(2024年)といった法的枠組みが整えられた。偽情報対策は、外向きの外交ツールからEU内部の情報空間統治へと広がっていった。
2022年2月──通常手続きを飛ばした「コンフェッショナル」
ロシアのウクライナ全面侵攻が始まったのは2022年2月24日。この軍事行動が、RTとスプートニク禁止決定の「引き金」になった。
通常、CFSPの決定は理事会の作業部会や常駐代表委員会(COREPER II)で公式に協議される。しかし今回は、それらを経ずに「コンフェッショナル(confessionals)」と呼ばれる非公式・小規模の会合が使われた。加盟国大使が少人数に分けられ、欧州委員会やEEASの幹部と週末を含めて集まり、非公開で協議する形式だ。
この場で、欧州委員会とEEASが禁止案を提示。バルト三国とポーランドが「初動の押し」をかけていたこともあり、議論は短時間で方向が固まった。
法的根拠は制裁措置として急ぎ整えられ、理事会は書面手続きで採択。加盟国によっては憲法や権限の面で懸念があったが、戦時の緊急性のもとで反対はほぼ不可能だった。
合意を導いた4つの論理
ヴェリテールは、各国の賛同を引き出した背景に4つの「相互作用の論理」があったと指摘する。
- 地政学的懸念
ロシアのプロパガンダはEUの存在そのものや国際的信頼性を損なう──そうした危機感から、禁止は政治的決意の表明とされた。 - 領土保全と独立の脅威
バルト三国やポーランドでは、ロシア語話者が多く、情報操作による国内不安定化への恐れが現実的だった。 - 連帯
直接の影響が小さい国も、「被害が大きい国を見捨てない」という連帯感から賛成に回った。 - 緊急性と政治的圧力
侵攻直後という非常事態で、迅速な一致がEUの結束と外部へのメッセージになると考えられた。
決定への批判と実効性の限界
この禁止措置は採択直後から多方面で批判を受けた。
- 法的権限の疑問:放送規制は本来、独立規制機関の権限であり、理事会が行うのは越権との指摘。
- 表現の自由:欧州人権条約や国際人権規約に抵触する恐れ。
- 実効性不足:禁止後もRTやスプートニクのコンテンツはVPNやSNS経由で閲覧可能。
- 国際的反発:ロシアが西側メディアを締め出す報復措置を取り、対立構造を強化。
ノルウェーやスイスは、憲法や影響の軽微さを理由に追随を拒否した。国連特別報告者も「非常に厳しい措置で、必要不可欠ではない」と批判している。
集合的セキュリティ化モデルの修正
この事例は、EUにおける安全保障化が加盟国からの初動と欧州委員会の推進力の組み合わせで進むことを示した。また、最終的な合意には市民感情や世論の影響も無視できず、従来の「上から下へ」の一方向モデルでは説明しきれない。
ヴェリテールは、複数のアクター(加盟国、EU機関、市民)が長期的に相互作用するモデルに修正すべきだと提案している。
表現の自由と安全保障、そのはざまで
RT・スプートニク禁止は、EUが自らの価値よりも地政学的利害を優先した瞬間だった。緊急時の決定が常態化すれば、透明性や民主的統制はさらに弱まる可能性がある。
偽情報対策は必要だが、それが「情報空間の制限」という形を取るのか、「市民の情報リテラシー向上」という形を取るのかで、社会への影響は大きく異なる。この事例は、その岐路を象徴している。
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