2025年7月に欧州委員会が支援する偽情報監視ネットワーク「MedDMO(Mediterranean Digital Media Observatory)」が公開した「Disinformation Narratives About Alternative Medicine and Unproven Medical Therapies」は、キプロスを中心とした南欧地域で流通した代替医療に関する偽情報キャンペーンを分析した報告書である。一見すると、よくあるファクトチェック文書のように思えるが、実際の内容はそれとは大きく異なる。
この報告書の核心は、「偽情報がどれだけ誤っているか」ではなく、「なぜ信じられてしまうか」「なぜ魅力的に感じられるか」を構造的に示している点にある。それは、代替医療の誤情報が単なるデマの寄せ集めではなく、ある世界観と一貫した価値観をもった「物語(ナラティブ)」として設計されていることを明らかにしている。
「構造化された語り」としての偽情報
報告書が対象とするのは、以下のような代替医療をめぐる主張である。
- アップルサイダービネガーが脂肪を燃焼し、血糖値を安定させる
- 呼吸法だけでうつ病が治る
- MMS(クロリンドライオキシド)がワクチン副作用に効く
- フェンベンダゾール(犬用駆虫薬)やイベルメクチンがステージ4のがんを治す
- 祈りと断食によって腫瘍が消える
いずれも医学的根拠に乏しい、あるいは根本的に誤っている情報だが、報告書が明示するのは、これらが単にバラバラに発生しているわけではなく、共通の構造をもった「信じさせる語り方」として機能しているという点である。
具体的には、以下のようなストーリーフレームが繰り返し用いられている:
- 主流の医療(現代医学・製薬業界)は信頼できない
- 自然、信仰、体験、自助による療法こそが真の治癒をもたらす
- 真実は隠されており、自分たちだけがそれに気づいている
つまり、これらは「何が効くか」を語っているのではなく、「何を信じるべきか」「誰を信じるか」というレベルで医療に関する信頼の構図をひっくり返す語りになっている。
科学、感情、権威──偽医療ナラティブが動員する「信頼装置」
報告書は、こうした語りが単に感情的であるだけでなく、複数の信頼の形式を重ね合わせるように設計されていることを分析している。
科学の擬態
「効果が示された研究がある」「糖を断てばがん細胞は飢える」「ある酵素が活性化する」──こうした言葉遣いは、実際には科学的には不正確であるにもかかわらず、「科学風の語り」として受け手に印象を残す。報告書は、科学的語彙の切り貼りによって、非科学的主張が正当化されるプロセスに着目している。
たとえば、「断食によって腫瘍が飢える」という語りは、「がん細胞がグルコースを大量に消費する(Warburg効果)」という現象に基づく表現を歪めて拡張したものである。糖質制限の研究成果を利用しつつ、「がんは糖を食べる」という素朴化された語りを通じて、科学と見せかける神話を構成している。
感情の力──治癒の物語と個人の証言
多くの偽医療ナラティブは、「私はこれで治った」という個人の体験談を中核に置く。たとえばフェンベンダゾールのがん治療説は、あるYouTube動画での一人の男性の体験談に端を発し、その後SNS上で「治った人が実在する」という感情的証明として流布された。
報告書が強調するのは、データではなく物語のかたちで提示された情報は、それだけで説得力を持ちうるという事実である。専門家の言葉が抽象的で難解に響く一方で、個人の「わかる言葉」は親密で信じやすい。しかも、それが奇跡的な回復を含んでいればなおさらだ。
権威の転用──宗教、セレブ、そして「代替医療の専門家」
「正教会の伝統療法」「メル・ギブソンの証言」「健康系インフルエンサーのインタビュー」──こうした要素が、偽医療の語りに一貫して組み込まれている。報告書は、これを**「信頼の転用」**と捉えている。つまり、元来別の領域(宗教、芸能、スピリチュアルなど)で確立された信頼性が、医学的判断の文脈に持ち込まれることで、虚偽の主張が信憑性を得てしまう。
たとえば、報告書に取り上げられている祈りと断食のがん治療ナラティブは、ルーマニアの宗教雑誌に掲載された話を起点としている。そこでは、「肉と糖を断てば腫瘍が死ぬ」「祈りによって治癒を導く酵素が活性化する」といった主張が展開される。信仰と医療の融合によって、科学的根拠の有無を問わず受け入れられてしまう構造がここにある。
規制が「信頼の証拠」に転化する──MMSの例
報告書でもっとも危険なケースとされているのが、MMS(Miracle Mineral Solution)=クロリンドライオキシドである。本来は工業用の漂白剤であり、消毒剤として用いられるこの化合物を、COVID-19後の副作用軽減や、がん治療に「使える」とする言説が拡散した。
この物質は、2020年に米国で違法販売を行った「Genesis II Church」の関係者が逮捕されたことでも知られている。ギリシャ当局も強い警告を出しており、実際には「摂取すれば臓器障害を引き起こす毒物」である。
だが報告書は、ここで重要なのは規制の存在そのものが、信じる人々にとっては「真実を隠すための弾圧」に見えるという逆説であると指摘する。「政府が禁止するということは、それが本当に効くからだ」「製薬会社が潰したいから潰している」というストーリーが組み合わされ、社会的制裁すらもナラティブの材料になるのである。
ファクトチェックでは足りないという問題
こうした構造を見るとき、単に「事実ではない」と指摘するファクトチェックだけでは不十分であることが見えてくる。報告書は、受け手が求めているのは“正しさ”ではなく“納得のいく物語”であるという現実を強調している。
科学的な言説が、論文やデータという形式で提示されるのに対し、偽医療ナラティブは「語り」「信頼」「体験」「希望」のかたちで語られる。それは情報ではなく、生活と痛みと信念の中に入り込む構造を持っている。
この報告書が示しているのは、偽情報の分析において、もはや「間違っているかどうか」という視点だけでは不十分だということである。むしろ問うべきは、「なぜそう信じたくなるのか」「どのように語られているのか」「それはどんな物語の中で整合しているのか」という、ナラティブの設計に関わる問いである。
まとめ
この報告書は、代替医療の誤情報がいかにして信頼を獲得するか、その構造を描き出したものである。そこで描かれているのは、「誤っている情報」ではなく、「誤っていると知りつつ信じたくなる物語」の設計図だ。
科学的正確さが通用しない領域がある。そのとき必要なのは、正しさを大声で叫ぶことではなく、相手の物語を理解することから始める批判的読解の技術である。この報告書は、そのための素材として一読に値する。
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