2025年7月末に The Lancet に掲載された論説「A crisis of credibility」は、COVID-19を契機に可視化されたワクチン誤情報の国際的構造を分析し、とりわけ米国が果たしてきた役割に焦点をあてるものである。単なる誤情報批判やプラットフォーム批判にとどまらず、感染症対策における制度的信頼そのものが国際的に崩れていくプロセスを具体的事例とともに提示しており、政策研究としても示唆に富む内容となっている。
ワクチン誤情報のハブとしての米国
本論説がまず示しているのは、米国がCOVID-19ワクチンに関する誤情報の「中心的供給国」として機能していたという実証的分析である。2019年10月から2021年3月の間に投稿された18言語、3億1600万件以上のワクチン関連ツイートを分析した研究によれば、米国のアカウントが誤情報ネットワークの中核的ハブとして異常なまでに高い影響力を持っていた。
さらに2021年の別の研究では、約3億件のワクチン関連ツイートのうち、たった800のアカウントが誤情報リツイートの3分の1を担っていたことが判明している。その中で最も影響力が大きかったのが、ロバート・F・ケネディ・ジュニアのアカウントであり、全体の13%以上を占めていたという。これらのアカウントは米国内のデジタル空間を主な活動拠点としながらも、その発信内容は国境を越えて拡散され、他国のワクチン政策や接種率に直接的な影響を与えている。
西アフリカと東欧における影響
米国発の誤情報が、どのように具体的な接種行動に影響を及ぼしているかを示す事例として、西アフリカと東欧のケースが紹介されている。
ナイジェリアやガーナでは、SNSを通じて拡散された反ワクチン的な内容が小児ワクチンに対する信頼を最大で44ポイントも低下させたことがUNICEFの報告書から明らかにされている。こうした影響を打ち消すために、ガーナでは「音声ドラマによる誤情報反論」が行われ、実際に無作為対照試験(RCT)を通じてその効果が検証されている。
また、ブルガリアやルーマニアといった東欧諸国では、国内発の偽情報に米国発の偽情報が追随する構図が見られた。2021年時点でブルガリアでは接種意向が60%を下回り、ルーマニアでは2022年初頭で接種率が45%未満にとどまった。いずれも誤情報による恐怖が広がったことが背景にある。
制度としての信頼の崩壊
誤情報によって揺らいだのは一般市民の信頼だけではない。医療制度の信頼性そのものが、政治介入を通じて損なわれている。2025年6月、米国においてワクチン政策を助言するACIP(予防接種実施諮問委員会)の全メンバーが突然解任されるという事件が起きた。この措置は、政治的介入として多方面から批判を受け、CDCやNIHの助言自体の信憑性を国内外の医療従事者が疑問視する転換点となった。
同時に、米国政府による国際保健支援──とくにGaviへの資金提供やUSAIDによるワクチン供給支援──が大幅に削減されたことが重なり、信頼性と資金供出という二つの柱が同時に失われるという事態が生じている。これにより、米国と連携するはずの保健機関やNGOは、国際的なワクチン普及の現場で不信と混乱に直面している。
アルゴリズム設計と制度的対策の提案
本論説では、こうした誤情報拡散が構造的に起きる要因として、SNSプラットフォームのアルゴリズム設計が感情的・対立的コンテンツを優先して表示するよう設計されている点が強調される。現在の主要プラットフォームでは、アルゴリズムの詳細がブラックボックス化されており、外部の独立した監視や検証が行えない。
対策として提示されているのは、欧州連合(EU)が導入したDigital Services Act(DSA)に類する制度の国際的展開である。これはプラットフォームに対してリスク評価の義務やアルゴリズムの透明性、誤情報対応の義務を課すものであり、個別国家ではなく国際連携による「デジタル公衆衛生憲章」の必要性が提案されている。
また、従来のボランティア型ファクトチェックでは不十分であり、プラットフォーム自体にファクトチェック機能を制度として内蔵させる必要性も指摘されている。とくに言語や文化に即した柔軟な対応が求められる。
社会的信頼をどう再構築するか
技術的な制度整備だけでは、すでに損なわれた信頼を回復するには不十分だと論説は認めている。医療制度への信頼が歴史的に薄いマイノリティ集団──たとえば人種的マイノリティ、障害者、LGBTQ+──では、制度そのものへの不信感が誤情報を受け入れる土壌となりやすい。
このような背景をふまえ、ワクチン情報の発信は単に「正しい情報を上から届ける」のではなく、地域ごとの信頼できる語り部や団体への資源移転を通じて「文化的正統性」を伴った対話を行うべきという提案がなされている。
「真実が足りない」という現実
この論説は、パンデミックが過去のものではないという認識から締めくくられている。気候変動による新興感染症リスクや人口移動に伴う感染拡大の可能性は依然として高く、次のパンデミックが目前にあるかもしれないという警戒感が前提にある。そのとき、「ワクチンが足りないからではなく、真実が足りないから命が失われる」という警句は、本論の要約として示される。
この論説は、政治的主張というよりも、国際公衆衛生における信頼の制度的構造がいかに機能不全を起こすか、その過程を実証的に示した一種の事例研究として読むべきだろう。誤情報が個人の知識水準や認知の問題ではなく、国家・プラットフォーム・制度・文化の交点で生じる現象であることが、数値と事件を通じて具体的に描かれている。ワクチン問題に限らず、今後の情報環境設計や国際制度の再構築を考える上でも有用な文献である。
コメント