欧州自治体・地域協議会(CEMR)が2025年10月に発表した報告書『Local Truth, Shared Trust: Tackling Mis/Disinformation from the Local Level』は、偽情報の影響を国家やプラットフォームではなく「地方行政」の視点で測定した初の体系的分析である。欧州委員会がデジタルサービス法(DSA)やAI法を整備する一方で、地方自治体は、日々の行政運営のなかで虚偽情報への対処を余儀なくされている。本報告は、その現実をデータと実例で可視化し、EU制度の「届かない距離」を定量的に描いている。
地方が受ける偽情報の形――制度そのものへの攻撃
調査は2025年3〜5月、11か国30自治体・協会を対象に実施された。サーベイ結果では、最も多く標的となったのは「選挙で選ばれた代表」(37.5%)、「公的機関」(33.3%)、「公衆衛生情報」(29.1%)、「民主過程・選挙制度」(25%)、「一般市民を巻き込む誤情報」(29.1%)であった。CEMRはこの傾向を“institutional-level disinformation”――制度単位への攻撃――と呼び、行政や議会の正統性そのものを破壊する構造的脅威として整理する。
報告書が挙げる典型例は具体的だ。ある自治体では、市役所の公式ロゴを模した偽チラシが出回り、税率改定の虚偽情報がSNSで拡散された。別の地域では、自治体職員名を騙ったアカウントが「補助金申請の受付終了」を偽って投稿し、実際の申請件数が一時的に3割減少した。公衆衛生の領域でも、「水道水汚染」「ワクチン在庫切れ」など、行政情報を装ったフェイクが多発している。こうした誤情報は「住民の信頼の揺らぎ」として顕在化するが、地方レベルではその影響を定量化する体制がない。回答の多くは影響を「最小〜中程度」と自己評価しているが、報告書はそれを「警鐘の鳴らない信頼侵食(trust erosion without alert)」と表現し、慢性的な麻痺状態を指摘している。
生成AIが作り出した「時間的に勝てない」構造
報告書は、2023年以降の生成AIの普及が地方社会の情報環境を根本的に変えたと分析する。AIは、文章・音声・映像を自動生成するだけでなく、既存のローカル文脈を学習して「もっともらしい嘘」を量産する。結果として、地方職員は「虚偽の訂正」に追われ、通常業務の時間を失っている。
事例として、地方議員の発言をAI音声で再現し、差別的発言をでっち上げた動画が拡散したケースや、保健当局の名を騙るAI自動音声が「ワクチン副作用の通報窓口」を装って電話をかけ続けた事例が挙げられている。こうした攻撃は、従来の「誤情報を見つけて訂正する」対応サイクルでは防げない。CEMRは「事実確認が完了する前に評判の損害が固定化する」と述べ、これを“defence lag(防御の遅延)”と呼ぶ。
さらに、AIが地域特有の分断を学習し、それを利用して炎上を引き起こす点も指摘されている。移民問題、気候変動政策、都市と農村の財政格差――いずれもローカルで分断が可視化されるテーマだ。AI生成の投稿が、既存の対立線をピンポイントで刺激し、住民同士の不信を増幅させる。報告書はこれを「社会的分断の自動増幅」と呼び、AI時代の偽情報はもはや“量的拡大”ではなく“構造的干渉”の問題であると結論づける。
EU法はあるが届かない――制度の「非対称性」
報告書の第二部は、EU制度の構造的な空白を詳細に分析している。デジタルサービス法(DSA)は違法コンテンツ削除の透明性を高め、AI法は操作的・欺瞞的AIの使用を禁止し、欧州メディア自由法(EMFA)は編集の独立と所有の透明性を保障する。だが、これらの制度のいずれも地方行政を法的主体として想定していない。
市役所が偽情報を通報しても、プラットフォーム側は自治体を「正式な通報機関」とみなさないため、削除要請は処理されない。AI生成物の規制も、国家単位の監督機関の権限に限定され、地方は“観察者”にとどまる。報告書はこの構造を“implementation asymmetry(実施の非対称性)”と呼び、「法の理念は存在しても、その実装経路が地方には存在しない」と結論づける。
さらに、報告書はメディアの脆弱性にも触れる。地方紙・地域放送局の経営悪化により、誤情報に対抗するためのファクトチェック報道が成立しなくなっている。EMFAが掲げる「編集の自由」は、資金面の支援と結びつかないため、地域メディアは形式上独立していても機能的には沈黙している。この構造的空洞化をCEMRは「信頼の生産装置の崩壊」と表現する。
信頼を再構築する技術としての自治体
報告書の第三部は、偽情報対策を単なる危機管理ではなく、信頼を再構築する社会技術として再定義する。CEMRは、地方を“trust-building governance”――信頼を設計し直す統治――の主体として位置づけ、三本柱の行動計画を提案する。
第一は、地方政府の能力とレジリエンスの強化。職員研修、常時監視システム、標的化された政治家への心理的支援が求められる。第二は、協働と知識共有。中央政府、研究機関、市民団体、地域メディアとの横断ネットワークを形成し、データ・知見・対処マニュアルを共有する。第三は、教育と市民参加。図書館や学校、市民講座での情報リテラシー教育を通じて、行政と住民がともに「信頼を作る側」に回る。
報告書は、北欧諸国の先行事例も紹介している。フィンランドでは地方図書館を基点に「情報衛生教育(information hygiene)」を行い、オランダでは自治体と市民団体が共同で“early-warning dashboard”を運用している。これらはすべて、行政が「偽情報の防御者」ではなく「信頼の設計者」として行動している例である。
勧告――地方を「共設計者」に
最終章でCEMRは、地方を政策の共設計者(co-designer)として制度に組み込むことを提案する。具体的には、EU資金を活用した自治体職員の専門研修、地方政府のモニタリングツールの導入支援、地域メディアの財政安定化、標的化された職員への保護制度の整備を挙げる。加えて、偽情報対策の国家計画やEU戦略に、地方代表を制度的に参画させることを求めている。CEMRは「情報信頼性の最小単位は地域にある」と明言し、地方行政を「民主主義の防衛インフラ」と位置づける。
結語――信頼は法ではなく構造である
『Local Truth, Shared Trust』は、偽情報の技術的・法的議論を超え、信頼そのものを行政の設計課題として再定義した点で重要である。AI時代の偽情報は速度・量・複製性のいずれにおいても人間の処理能力を上回る。もはや“正確な情報を提示する”だけでは防御にならない。CEMRは、「制度の防御」から「信頼の再生産」へというパラダイム転換を提案する。信頼は上から与えられるものではなく、地方社会が自らの手で再構築するものだ。EUの制度がその現実に追いつくかどうか――この報告は、その問いを突きつけている。


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