2027年の次期選挙を控えたケニアでは、選挙制度やインフラ整備よりも深刻な問題が政治を蝕んでいる。それは、女性が政治に参加することそのものが暴力や侮辱、そしてデジタル空間での偽情報攻撃によって抑圧されるという現実だ。英国のWestminster Foundation for Democracy(WFD)が公表した報告書「The Role of Political Parties in Addressing VAWP and Gendered Disinformation in Kenya」は、この構造的暴力を「民主主義の質の問題」として再定義する。著者Leah Kimathiは、女性政治家への暴力(Violence Against Women in Politics: VAWP)とジェンダー偽情報を、家父長制・制度的無責任・デジタル操作が結びつく複合現象として描き出す。
家父長制の再生産としての暴力
ケニアでは2010年憲法が「同一性別が公職の3分の2を超えてはならない」と規定しているが、現職女性議員は全体の24.8%にとどまる。制度上は平等をうたっても、政治現場では暴力と侮蔑が常態化している。報告書に収録された女性候補たちの証言は苛烈だ。「党の指名を得るために性的関係を迫られた」「対立候補から『売女』と呼ばれた」「集会で男性支持者に身体を触られた」。暴力は身体的だけでなく、心理的・経済的・象徴的に女性を排除する仕組みとして機能している。
これらの行為を可能にしているのは、家父長制的な政治文化そのものである。報告書は、政党組織の構造が「男性の連帯によって権力を維持するメカニズム」になっていることを指摘する。女性候補の苦情は黙殺され、暴力を訴えると「政治はそういうもの」と諭される。党内に通報・懲戒制度がなく、被害を公にすれば「弱さ」として扱われる。こうして沈黙と恐怖が制度化され、女性の政治的エージェンシーは損なわれていく。
オンライン空間で拡張する暴力
この旧来型の構造暴力に、新たな層を加えたのがデジタル空間での攻撃である。報告書は特にTechnology-Facilitated Gender-Based Violence(TFGBV)を詳細に扱い、Facebook、TikTok、WhatsApp、Xなどが主要な戦場となっていることを明らかにする。女性政治家の容姿を嘲笑するミーム、性的関係を捏造する動画、偽の発言スクリーンショット、さらにはディープフェイク画像までが流布され、攻撃の矛先は政治的主張ではなく女性であることそのものに向けられる。
こうした投稿は拡散速度が速く、事実訂正や削除が追いつかない。被害者は名誉毀損よりも心理的被害を強調しており、「再び立候補できなくなった」「公共の場で発言できなくなった」と語る。SNSは女性の政治的発言を封じる最も効率的なツールとなり、報告書はこれを「デジタル時代の検閲」と位置づける。暴力は選挙期だけでなく日常的に続き、政治的沈黙を再生産する。
政党の沈黙という制度的共犯
報告書が他の研究と異なるのは、責任の焦点をSNS企業ではなく政党組織に置いている点だ。政党は候補者選抜・資金配分・政治文化形成の中核を担うが、VAWP対策はほぼ存在しない。多くの党で女性候補は「周縁的存在」とされ、選挙資金の支給は後回し、支援チームは男性中心、被害報告を受けても「騒ぐな」と口止めされる。党の幹部はしばしば加害者と同一のネットワークに属し、暴力は内部で循環する。
報告書は、こうした構造的失敗を「制度的共犯(institutional complicity)」と呼ぶ。暴力を止める仕組みが存在しないこと自体が暴力の一形態であり、女性が政治から退出することを“自然な淘汰”として扱う文化を正当化している。これが民主主義の代表性を蝕む。女性が政策決定の場から排除されることで、教育・医療・社会福祉などの政策議題が周縁化し、社会全体の意思形成が歪む。
ジェンダー偽情報という情報操作の武器化
もう一つの柱が「ジェンダー化された偽情報」である。報告書は、これを単なるネット上の嫌がらせではなく、政治戦術として組織的に使われる情報操作の一種として分析する。偽情報の焦点は一貫して「女性の性」「家庭」「道徳性」に置かれる。女性議員の発言が「家庭を壊す」「伝統を侮辱する」といった文脈で切り取られ、性的逸脱と結びつけられる。これらのナラティブはアルゴリズム的に拡散し、世論を分断させる。
ここで興味深いのは、ジェンダー偽情報がオーガナイズドな政治キャンペーンと結びついている点だ。報告書は、特定政党の支持者がボットアカウントを使い、女性候補を中傷する事例を複数挙げる。ディープフェイク技術の普及によって、視覚的証拠を装った虚偽情報が容易に生成され、攻撃の説得力を高める。ジェンダー偽情報は、性差別的文化の延長としてだけでなく、情報戦略として制度的に運用されている。
政党が担うべき制度改革
報告書は、VAWPと偽情報の双方に対して政党が担うべき改革を詳細に提案している。中心は「ゼロトレランス方針の明文化」と「内部通報・懲戒制度の構築」である。党規約にVAWPを定義し、加害行為が確認された場合は即時に処分する仕組みを設ける。加えて、被害者が安全に報告できる匿名ルート、心理的・法的支援を提供する専門部署を設置する。これらは単なる倫理規定ではなく、政党のガバナンス機能として制度化される必要がある。
また、党幹部および候補者全員にジェンダー感受性訓練を義務づけること、選挙期間中に暴力・中傷を監視する「女性状況室(Women’s Situation Room)」を設けることも提言されている。意思決定機関における女性の実質的登用、予算措置、被害者への経済的補償など、制度的支援がなければ構造は変わらない。Kimathiは「ジェンダー平等は選挙公約ではなく、政党ガバナンスの条件である」と結論づける。
国際比較に見る実効モデル
報告書は、他国の先行事例を比較しつつ、ケニアの制度改革の方向性を示す。ボリビアでは2012年のLaw No.243が「女性政治家への暴力防止法」として制定され、政党に内部報告制度を義務づけた。フィンランドではオンライン暴力に対抗するため、主要政党が共同で「政治家に対する嫌がらせ行為の報告プラットフォーム」を構築し、被害者を横断的に支援している。ナミビアでは、女性議員自身が党内での暴力を公表するキャンペーンを展開し、沈黙を破る文化を形成した。
国際的には、英国のOnline Safety Act(2023)、EUのDigital Services Act(2022)など、SNS企業に透明性報告や現地言語モデレーションを義務づける法整備も進む。報告書は、これらの制度をケニアが参照し、政党・市民社会・プラットフォームが連携する三層構造を構築すべきだと提言する。
民主主義の後退とジェンダー暴力
Kimathiの分析の根底にあるのは、「女性への暴力は民主主義の後退の指標である」という認識だ。VAWPは単なる性差別ではなく、代表制そのものを侵食する政治的暴力である。暴力によって特定の集団が排除される社会では、政策決定が偏り、民主主義は形式だけを残した権威主義へと傾斜する。ジェンダー偽情報はその過程を加速させる。虚偽の物語が公共空間を支配すると、真実ではなく偏見が政治を決定する。
報告書は、暴力を「個人への加害」ではなく「民主的制度への攻撃」として再定義する必要があると述べる。政党がこの視点を採用しない限り、女性候補支援や教育研修は一時的な施策に終わる。VAWP対策とは、民主主義を再設計する行為そのものである。
まとめ:政党ガバナンスの再構築へ
ケニアの現実は、グローバルな課題の縮図である。ジェンダー暴力、偽情報、家父長制、無責任な政党組織——これらは互いに絡み合い、政治空間を男性の排他的領域として維持している。報告書が示すのは、政党の内部改革こそが民主主義の防波堤になり得るという明確な構造的提言だ。
「政治における女性への暴力を終わらせることは、人権擁護ではなく民主主義の再構築である」。この一文に象徴されるように、WFD報告書はケニア固有の課題を超え、情報環境と制度設計の接点における新たな政治理論を提示している。ジェンダー偽情報はもはや周縁的な問題ではない。政治空間の構造を問う主題として、今後の民主主義研究の中心に据えられるべきだ。


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