ブルガリア情報空間の構造分析――制度疲弊・象徴事例・AI生成物が交差する多層的ナラティブ

ブルガリア情報空間の構造分析――制度疲弊・象徴事例・AI生成物が交差する多層的ナラティブ ファクトチェック

 EU DisinfoLab が発行したファクトシート「The disinformation landscape in Bulgaria」(2025年11月)は、偽情報そのものに飛びつくのではなく、まず“受け手側の脆弱性”を丁寧に積み上げるところから始まる。4年間で7回の国政選挙、司法と公共放送で長期化する暫定トップの空白運営、議会への肯定評価わずか15%、ニュース回避率63%。これらの数値は、偽情報が入り込む以前に、政治制度と社会心理の側がすでに強い不安定性を抱えていることを示す。

 1989年以降の政治を支えてきた主要政党 MRF の分裂、2024年選挙後の憲法裁による再集計で新党 Velichie が議席を獲得し、与党連合がぎりぎり過半数へと縮小する経緯は、制度の自己正当性の揺らぎを象徴する。これと並行して、2025年のシェンゲン全面加盟、2026年のユーロ導入という国家的転換点が迫り、社会には期待と疑念が複雑に併存する。ナショナリスト政党が支持を伸ばし、政治的亀裂が固定化される中、偽情報は社会の「割れ目」に沿って流れ込み、そこで増幅される形をとる。

象徴的事件が照射する構造的ほころび

 本ファクトシートの核心は、抽象的概念ではなく具体的事件の連鎖にある。制度疲弊と情報操作がどのように重なり合うかが、事例ごとに異なる角度から立ち上がる。

司法・政治・メディアの緊張が露骨に可視化される

 テレビ番組「Counterpropaganda」でメディア所有構造を批判的に議論した学者と司会者が、Nova TV によって名誉毀損で訴えられた事案では、請求額は1レフと象徴的であるにもかかわらず、公共空間での批判を「威嚇するための訴訟」という性質が強く現れた。最終的に訴えは取り下げられたが、SLAPP 的圧力の典型例といえる。

 調査報道サイト Mediapool の記者 Boris Mitov が、有力裁判官に関する記事を理由に2025年に最高裁で有罪確定し、3.6万レフの賠償と訴訟費用の支払いを命じられた件は、司法権力が報道内容に直接介入する構造を示す。判決は「記事が裁判官の健康悪化と家庭不和を招いた」と認定し、他メディアの影響を考慮しない姿勢を明確にした。この論理は、制度外の圧力ではなく、制度内部から言論の射程を狭める力として作用する。

 公共メディア(BNT・BNR・BTA)の従業員による全国ストは、15%の賃上げ要求を掲げ、「メディアで働くという職に社会的価値がある」というメッセージを発した。報道環境が“制度として”ではなく“職業として”持続可能性を失いかけていることの表れである。

国際政治をめぐる情報操作とイベントの政治化

 フォン・デア・ライエン EU委員長がブルガリアを訪問した際に発生したロシアのGPSジャミング疑惑は、事実の一部が検証で修正されてもなお、反EUナラティブに吸収された。専門家による飛行データ分析では「1時間の旋回」ではなく「数分の迂回」に過ぎないとされたが、「EUは脅威を誇張している」という既存の感情構造が強いため、訂正情報が意味を失う。

 ブルガリア副首相が中国の対独戦勝80周年パレードに出席し、プーチン、ルカシェンコ、金正恩らと同席した写真が国内政党によって拡散された件は、“外交儀礼の一部としての出席”が、「欧州志向への疑義」「政府の親ロシア化」という政治スキャンダルへと変換された。国際政治イベントが国内分断の燃料に再配置される典型例である。

動物・宗教といった“軽量な話題”が重大ニュースを覆い隠す

 2025年夏に Shumen の自然公園でヒョウが出没したというニュースは、真偽不明の追加情報やミームを伴い、全国レベルでエンタメ化した。一方で同期間に起きた汚職事件の逮捕、言論弾圧につながる判決確定、国有資産売却といった重いニュースは、公共空間での視認性を失った。これらの“ディストラクション・ナラティブ”は、個別事件を超えて、注意資源を奪う情報環境そのものの構造を示す。

 宗教領域では、新任のブルガリア正教会総主教が Rila 山の湖で儀式を行った場面が、神秘主義団体「Universal White Brotherhood」との対立構図に再解釈され、宗教機関への不信・陰謀論へと発展した。象徴性の高い映像は、潜在的な不信と結びついたとき、政治事件とは異なる形で情報空間を占拠する。

災害・治安・インフラをナラティブ化する動き

 森林火災が「NATO演習の隠れ蓑」と解釈され、鉄道事故多発が「民営化のための意図的放置」と受け取られる事例が続き、災害・インフラ事案は“政治的意図”を読み込む対象へと変換される。若者による暴行事件でも、政党間の相互非難が先行し、事実関係の判明よりも政治的解釈が拡散した。

反EU・反NATOナラティブとAI生成物の融合

旧社会主義ノスタルジーという感情基盤

 調査で「ジフコフ時代に戻りたい」が32.6%に達するなど、旧社会主義体制へのノスタルジーは特定の層に強い。この感情は、単なる懐古ではなく、EUやNATOに対する“制度的外圧”の物語と容易に結びつき、政策議題への不信の母体となる。

ユーロ導入反対ナラティブの多層構造

 ユーロ導入は、「タイタニック号のように沈む」といった比喩、欧州主要国の経済不振、国民投票がなかった点、インフレ懸念、腐敗の象徴化など、多要素が束になって反対運動を形成している。単一の論点ではなく、不安のレイヤーが重なることで、ナラティブが強度を持つ。

AIディープフェイクが政治空間に侵入する初期段階

 政治家 Nikolay Denkov を使った投資詐欺広告、愛国政党リーダーの転倒映像、記者のヌードフェイクなど、AI生成物は既に「人格攻撃」「詐欺」「嘲笑」の三領域で利用されている。加えて、ウクライナ戦争・イスラエル戦争に関する偽画像が国際的に流通し、ブルガリア国内の反NATO・親ロシアフレームに組み込まれることで、AIコンテンツは“既存ナラティブの強化剤”として作用する。

ロシア系情報網の再編と痕跡消去

 ブルガリア語圏では、コピーサイト群「Mushroom Machine」が長らくクレムリン主張の拡散基盤となってきたが、2024年以降はロシア関連記事を逆行的に削除する動きが確認されている。ネットワークが痕跡を消し、構造を改変する段階に入ったことを示す。

 さらに「Pravda」ネットワークは 190サイト・140サブドメイン・83か国を対象とする規模で稼働し、ブルガリアも主要ターゲットの一つである。広域展開と反復的運用によって、外部アクターの影響力工作は“キャンペーン”ではなく“基盤運用”へと移行している。

市民社会・技術企業・研究者が形成する「情報インテグリティの防衛線」

 国家制度が不安定な一方、ブルガリアでは市民社会が自律的な防衛エコシステムを形成している。BROD によるドキュメンタリー「Architects of Chaos」は300万再生を突破し、Disinformation Observatory が新設され、Sensika、Identrics、Commetric などの技術企業が Sofia Information Integrity Forum を軸にシンクタンク(CSD、HSSF、GATE)と連携する。

 メディアリテラシー・コアリションは教員向け資格コースや大学ハッカソンを運営し、教育領域から耐性形成を進める。ファクトチェック機関(BROD、Factcheck.bg、主要放送局の専任部署)は欧州標準の独立ファクトチェック規範に加盟し、市民社会側で制度的裏付けを形成する。

法制度の揺らぎと政治的振れ幅

 Digital Services Act の国内執行担当官が任命される一方、記者への刑事罰を導入する法案が4日で撤回されるなど、規制と抑圧の両方向に制度が揺れる。ロシア侵略非難決議が賛成112・反対52・棄権26に割れたことは、安全保障問題ですら政治的分断が先行する状況を示す。

複層的な構造としてのブルガリア

 本ファクトシートが明らかにするのは、ブルガリアの偽情報環境が次の三層から構成されるという点である。

  1. 制度疲弊と政治不信が蓄積する“受け手側の土壌”
  2. 動物・宗教・災害といった象徴的事例による注意の奪取
  3. 外部アクターとAI生成物が既存ナラティブと結合し増幅する構造

 これら三層は独立ではなく循環する。政治不信が象徴事例への過剰反応を生み、そこに外部アクターとAI生成物が重なり、制度不信が再生産されるという負のループが、ブルガリアでは定常化している。

まとめ

 EU DisinfoLab のブルガリア版ファクトシートは、小規模国家の情報空間がどのように制度疲弊・社会心理・象徴事件・外部影響・AI生成物を一つの流れとして吸収し、偽情報の“定着しやすさ”を生み出すのかを具体例の密度で示す。偽情報の供給側だけを見るのではなく、受け手の社会構造・制度的隙間・注意資源の奪取といった多層的視点を含む本レポートは、現代情報空間の脆弱性を理解する上で重要な示唆を与える。

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