英国のファクトチェック団体Full Factが毎年発行する年次報告書『Full Fact Report 2025』は、過去1年における偽情報の実例、社会的影響、制度的対応を網羅的に点検した資料である。本報告書の特徴は、全12章にわたって事件・制度・プラットフォーム・教育の4領域にまたがる構造分析を試みている点にある。
以下では報告書の内容を章立てに沿って紹介しつつ、その分析的視座の特性と限界を整理する。
1. 事件・現象としての偽情報:拡散はどこから始まり、何を壊したか
- Meta契約の打ち切り(第1章)
Meta社が米国で「第三者ファクトチェック契約(TPFC)」を打ち切り、Community Notesへの移行を図ったことで、プラットフォーム上の誤情報訂正メカニズムが専門機関から切り離された。これは、検証体制の民間的支柱が崩れる象徴的な転換だった。 - サウスポート暴動(第2章)
2024年に発生した暴動では、刺殺事件に関する誤情報がSNSとTelegramで急速に拡散し、移民排斥的な暴力を煽った。報告書はここで、監視困難なプライベートチャネルのリスクを特に強調している。 - 総選挙とAI合成ビジュアル(第3章)
2024年の英国総選挙において、AI生成画像や偽の候補者情報が拡散。とりわけSNS上では視覚メディアによる印象操作が問題となった。 - 外国勢力と陰謀論(第4章)
ロシア系アカウントによる操作や、匿名アカウントによる感情扇動が継続的に確認されており、誤情報の政治的利用は今なお常態化している。 - 健康分野での誤情報(第5章)
ワクチン、妊娠、精神疾患などに関する誤情報が、エビデンスに基づく医療を侵食している。専門家の信頼性が低下し、個人の行動変容を引き起こしている。
2. 制度の機能不全:英国法とAI政策の限界
- オンライン安全法の盲点(第6章)
2023年に施行された「オンライン安全法(OSA)」は違法コンテンツへの対応には一定の枠組みを与えたが、「違法ではないが有害な情報」に対してはほとんど機能していない。研究者アクセスの不備や、Ofcomの実効性のなさも問題として挙げられている。 - AI規制の空白(第7章)
Ada Lovelace Instituteによる調査では、72%の英国市民がAIに対する強力な規制を支持しているが、政府の対応は極めて慎重かつ消極的。ディープフェイクや生成コンテンツの規制は手つかずに近い。
3. 技術基盤の後退:プラットフォームと自己規制の限界
- ファクトチェッカーからの離脱(第8章)
Meta、Googleなどが第三者ファクトチェッカーとの連携を徐々に縮小し、クラウドソース型の訂正手法(Community Notes等)に依存するようになっている。報告書はこれを「信頼性より拡散性を重視する傾向」として批判する。 - 有害情報ポリシーの形骸化(第9章)
EUではDSA(デジタルサービス法)が導入され、法的義務として有害情報対策が規定されているのに対し、英国ではプラットフォームの自己規制に委ねられたままである。
4. 教育と介入の課題:誰にどう届くのか
- リテラシー政策の偏り(第10章)
政府の「デジタル包摂計画」は若年層に偏っており、中高年層や政治的関心層などへの教育が不十分。情報リテラシーを社会全体の文化的インフラとして捉える視点が欠如している。 - プレバンキングと訂正促進(第11章)
事後的な訂正対応では限界があるため、誤情報への事前的耐性を育てるprebunking(予防的認知戦略)が紹介されている。また、政治家やメディア関係者による誤情報訂正行動を促す制度設計の必要性も論じられる。
まとめ
報告書は、誤情報の実例を通じて英国社会における制度的対応の限界を明示するとともに、プラットフォームの責任と教育政策の空白を俯瞰的に示している。その意味では、ファクトチェックが民主的情報環境の制度化に不可欠な要素であることを再確認する内容となっている。
しかし同時に、報告書は一貫して「誤情報=検証可能な事実の誤り」という前提に立っており、「なぜ人々が誤情報を信じたがるのか」「なぜそれが政治的・文化的アイデンティティと結びつくのか」といった、認知的・社会的メカニズムには踏み込まない。ファクトチェックは必要条件ではあるが、信頼の喪失や社会的分断という構造的背景に対する十分条件ではないという視点を補う必要がある。
この報告書を読むことで、現在の制度設計が何を前提にし、何を扱えていないのかが明確になる。偽情報対策をめぐる戦略的選択肢を検討するうえでの、基礎的かつ批判的資料である。
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