反シオニズムはどのような現象として現れているのか――大学・NGO・国連・メディアにまたがる言説の集積

反シオニズムはどのような現象として現れているのか――大学・NGO・国連・メディアにまたがる言説の集積 ヘイトスピーチ

 本稿で扱うのは、オーストラリアの民間政策系団体 Centre for Independent Studies(CIS)が公表した分析文書「Reframing an Ancient Hatred: the intersection of left-wing antisemitism and anti-Zionism」(2025年12月)である。CISは大学や政府機関に属する研究機関ではなく、経済政策、外交・安全保障、言論の自由などをめぐる論点について、既存の資料や事例を整理し、公共的・政策的議論に介入することを目的とした団体である。

 この文書は、新しい理論や独自の実証研究を提示するものではない。近年、大学キャンパス、国際NGO、国連人権機関、メディアなどで観察されてきた言説や出来事を集め、それらがどのような言葉遣いと評価の枠組みのもとで語られているのかを並べて示す構成になっている。中心に据えられているのは、反シオニズムがどの領域で、どのような形で現れているのか、という点である。

大学キャンパスでの言説

 文書の中で最も多くの紙幅が割かれているのが、米国、英国、オーストラリアの大学キャンパスにおける声明や抗議活動である。対象となっているのは、学生団体や教職員グループが公表した声明、公開書簡、学内向けの通知などで、特に2023年10月以降の事例が集中的に取り上げられている。

 これらの声明では、ハマスによる攻撃について「テロ」や「民間人殺害」という表現がほとんど用いられず、「抵抗」「脱植民地化の文脈」「長期にわたる抑圧への応答」といった語が選ばれている。一方で、イスラエルの軍事行動については、「ジェノサイド」「アパルトヘイト」「民族浄化」といった極めて強い評価語が繰り返し用いられている。

 個別の声明を見ていくと、イスラエル国家の存在そのものが植民地主義的暴力の帰結として位置づけられ、その枠組みの中で現在の出来事が理解されていることが分かる。出来事の対称性や比較、武力行使の文脈についての詳細な検討はほとんど行われておらず、評価語が理解の前提として機能している。文書では、イスラエル国家の存在を肯定する立場を示した学生や教員が抗議の対象となり、集会や授業への参加を控えるようになった事例も紹介されている。

英国・オーストラリアの大学における具体例

 英国の大学キャンパスでは、「From the river to the sea」というスローガンが抗議活動で繰り返し用いられてきた。このフレーズについて、その意味や含意を問題にする声が上がった際、「単なる人権要求であり、抑圧に反対する表現にすぎない」として議論自体が封じられた事例が挙げられている。

 オーストラリアでも、大学関係者による公開書簡や声明の中で、イスラエルを一方的な加害者と位置づける表現が相次いだ。これらの文書では、ハマスの行為は背景説明として簡単に触れられるにとどまり、評価の対象から外れている。その結果、誰の行為がどのように評価されるのかという点で、明確な非対称性が生じている。

ユダヤ人内部からの言説

 文書は、反シオニズムを掲げるユダヤ人団体や知識人の言説も数多く取り上げている。これらは外部からの批判ではなく、「ユダヤ人内部からの倫理的批判」として提示されるため、特に強い正当性を帯びやすい。

 「シオニズムはユダヤ倫理に反する」「国家主義はユダヤ的価値と相容れない」といった主張は、多様な意見の一つとして紹介される一方で、結果としてシオニズムを支持するユダヤ人を道徳的に劣位に置く基準として機能している。どの立場が「正しいユダヤ性」と見なされるのか、その線引きが暗黙のうちに形成されていく過程が示されている。

 また、「ユダヤ人ロビー」や「過剰な影響力」といった表現が批判の文脈で用いられ、古典的な反ユダヤ主義的図式と接続してしまう例も挙げられている。意図の有無にかかわらず、特定の集団が不当な権力を持っているという物語が再生産されている点が強調されている。

NGO・国連人権機関での用語法

 国際NGOの報告書では、「アパルトヘイト」という語がイスラエルに対して断定的に使われている例が紹介されている。これらの報告書では、概念の定義や他地域との比較よりも、評価語そのものが前提として用いられている。

 国連の人権関連機関や特別報告者の声明でも、「ジェノサイド」「集団的懲罰」といった語が繰り返し登場する。これらは法的判断というよりも、政治的・道徳的メッセージとして発せられているが、国連という制度が持つ権威によって強い影響力を持つ。他の紛争や地域では同様の語が用いられていない点については、ほとんど説明されていない。

メディアとSNSでの拡散

 メディア報道やSNSでは、ガザ保健省が発表する死者数などのデータが、出所や検証過程を十分に説明されないまま引用される例が取り上げられている。また、別の地域や過去の出来事を撮影した映像や写真が、現在の状況を示すものとして共有されるケースも挙げられている。

 訂正や反論が後から行われることはあるが、最初に形成された印象がその後も残り続ける点が指摘されている。こうした情報の流通は、評価語と結びつくことで、特定の理解の枠組みを強化していく。


まとめ:公共圏はなぜ同じ評価に同期してしまうのか

 大学、NGO、国連、メディア、司法といった本来は異なる役割と判断基準を持つ制度空間で、同じ言葉と評価が前提として共有される状況が生じている。特定の立場に限らず、同じ強度の評価語が、ほぼ同じ使われ方で反復される。

 注目すべきなのは、その同調が、嘘や単純な事実誤認によって説明できるものではない点である。扱われている出来事の多くは実在しており、参照されている情報源も公的機関や著名な団体である。それにもかかわらず、評価は検討や比較を十分に経る前に固定され、異なる制度空間へと連鎖的に広がっていく。

 評価は、事実確認の積み重ねによって強化されるのではなく、どの制度を通過したかによって正統性を帯びる。大学の声明で用いられた語がNGOの報告書に引き継がれ、国連の文脈に乗り、メディアで再生産される。その過程で、評価は検証の対象ではなく、共有された前提として扱われるようになる。

 こうして公共圏が同期すると、次に起きるのは議論の困難化である。定義を問うこと、比較を求めること、別の表現を提案することが、「誤り」ではなく「不適切」「不道徳」として退けられる。議論は否定されるのではなく、開始点そのものが失われる。

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