ロシアの幻想:冷戦後秩序はなぜ失われたか——アトランティック・カウンシル報告書が解剖する西側の認知的失敗

ロシアの幻想:冷戦後秩序はなぜ失われたか——アトランティック・カウンシル報告書が解剖する西側の認知的失敗 情報操作

 アメリカを代表する外交政策シンクタンクで、明確に親西側・対ロシア強硬の立場をとるアトランティック・カウンシル(Atlantic Council)のユーラシアセンターが2026年3月、Russian Illusions: How the West Lost the Post-Cold War Era(「ロシアの幻想:西側はいかにして冷戦後の時代を失ったか」)を刊行した。著者はラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティでロシア・東欧を長年担当したジャーナリスト、Brian Whitmoreである。報告書は政策提言機関の発行物であり、その視座に内在する立場性を念頭に置いたうえで読む必要があるが、情報操作ドクトリンの概念整理から、インターネット・リサーチ・エージェンシーの工作構造の解剖、グローバリゼーションの武器化論まで、情報操作研究として参照価値のある分析を含んでいる。1992年から2022年にかけての「三十年危機」を六つの教訓として整理するという構造を持ち、英国の歴史家E・H・カーが1939年に著した『二十年危機』との類比を分析軸に据えている。

「演出」としての政治:pokazuka・maskirovka・反射的制御

 報告書がロシアの情報操作を論じる出発点として用いるのが、マデレーン・オルブライト元国務長官にまつわる偽情報の生成・流通過程である。「オルブライトはシベリアの天然資源はロシアが独占すべきではないと発言した」——この架空の発言は、2007年にプーチンの年次コールイン番組で最初に「公式化」され、その後クレムリン幹部が繰り返し引用することで既成事実化した。Whitmoreが追跡すると、発言の「起源」は2006年12月に政府公式紙ロシースカヤ・ガゼータに掲載されたKGB退役将軍Boris Ratnikovのインタビューにたどりつく。Ratnikovは、自分がエリツィン大統領警護中にオルブライトの心を読んだと主張し、「彼女の心の中にスラブ人への病的な憎悪を見出した」「ロシアが世界最大の鉱物資源を管理することへの憤りを持っていた」と述べたとされる。政府公式紙への掲載が「根拠」を与え、その「根拠」が匿名化・脱文脈化されながら公式発言として流通する——報告書はこの過程を、真偽不明のままであれこれ意図的な植え付けであれ、ロシアの情報操作の典型例として位置づける。

 この事例は「ドラマツルギー」と呼ばれる技法の実例である、と報告書は論じる。スキャンダル、危機、偽の物語、さらには人工的な現実そのものを製造する技術であり、ロシア語にはそれを示すスラングとして「pokazuka」(показуха)という語がある。動詞pokazovat(「見せる」)に由来するこの語は、見せかけの現実を構築する操作行為を指し、「maskirovka」(偽装・欺瞞)とともにロシアの情報工作の中核概念とされる。報告書が特に重視するのは、この二概念の上位に位置する軍事ドクトリン「反射的制御(reflexive control)」である。1960年代にソ連の軍事戦略家が定式化したこのドクトリンは、敵が自発的にモスクワの望む行動を選択するよう、情報環境を事前に形成することを目的とする。軍事アナリストのFrederick・Kimberly Kagan両氏が2015年に記述した定義を報告書は引く——「反射的制御の思想は、敵がロシアの望む行動方針を自発的に選ぶよう環境を形成することにある。他のすべての選択肢がはるかに困難で危険に見え、不可能にさえ見えるからだ。反射的制御は、はるかに弱い勢力がはるかに強い勢力の行動を制約し、支配することすら可能にする」。偽情報キャンペーン、心理作戦、政治介入、軍事的既成事実の形成——その手段は問わず、事前に情報・物理の両環境を作り替えることで敵の選択肢を限定するという構造が本質である。

 政治学者Andrew Wilsonが2005年に著したVirtual Politics: Faking Democracy in the Post-Soviet Worldでロシア政治を「スペクタクルの社会」と呼んだのと同様、Whitmoreはロシアにおける現実の多層性を強調する。Wilsonが2015年の論考で「ロシアのプロパガンダの目的は代替的なリアリティを創造することだ。代替的なメッセージではなく、代替的な現実そのものを」と述べたことを引用し、报告書はこれをクレムリンによる組織的な現実工学(reality engineering)と位置づける。

西側の認知的失敗:なぜ幻想は維持されたか

 このような情報操作が機能した背景を、報告書は西側の認知的・制度的失敗から説明する。中心的な史料として用いられるのが、米国務省外交官Thomas Grahamが1995年11月23日にロシア日刊紙ネザヴィシマヤ・ガゼータに発表した五千語の論考「新しいロシアの体制」である。Grahamは当時、モスクワの米大使館で上級政治担当官を務めていた。論考の主張は当時の西側の通説を根底から覆すものだった。西側の大半のアナリストは、ロシア政治を親西側リベラル派と共産主義者・民族主義者の「赤褐色連合」の対立として読んでいた——つまり、信念・価値観・世界観によって駆動される制度政治を前提としていた。Grahamが描いた実像はまったく異なる。ロシア政治を規定しているのは制度・法・政党・イデオロギーではなく、産業・経済利権に紐付いた諸クランによる、無価値・無原則の権力闘争だとGrahamは論じた。「これらのクランはさまざまな点で異なるが、共通の特徴を持つ:それぞれが有力な政治的人物を中心に形成され、主要な金融・産業組織との繋がりを持つ」「議会の会派——共産主義者であれ、民族主義者であれ、中道派であれ、民主主義者であれ——はいずれのクランにとっても大きな意味を持たない」と記した。さらに、いかなるクランも民主主義的な理想に献身しておらず、選挙を含む民主的手続きは権力闘争の武器として扱われており、「これは不可避的に民主的自由の制限につながる」と予言的に記している。

 Grahamの警告は多くのロシア研究者に吸収されたが、政策には転換されなかった。報告書はその理由を政治学者Robert Jervisの認知心理学的分析に求める。Jervisが1976年の著作Perception and Misperception in International Politicsで論じたように、意思決定者は「合理的認知的一貫性」を追求し、「入ってくる情報を既存の信念に当てはめ、自分が期待するものを知覚する」傾向を持つ。これが確証バイアスを生み、「意思決定者は入ってくる情報を既存の理論やイメージに当てはめようとする」。冷戦の勝利をアメリカ的価値の確認として内面化していたクリントン政権は、共産主義後のロシアが西側パートナーになるという図式に深く投資していた。Savranskaya・Sarotte両氏の研究が示すように、クリントンはエリツィンを「不可欠のパートナー」と見なし、この認識が「民主主義への移行を支援するという米国の立場が、事実上、気に入った『民主主義者』エリツィンを唯一の選択肢として推すことに矮小化される」という帰結をもたらした。1993年10月のエリツィンによる議会砲撃で147名が死亡し437名が負傷した後も、クリントンはエリツィンに電話で称賛を伝え、国務長官Warren Christopherは「危機の見事な処理」を称えた。エミグレの政治学者Alena Ledeneva(Can Russia Modernize?, 2013)が「sistema」と呼ぶインフォーマルな庇護ネットワーク・不文律・クレプトクラシー的クラン構造がロシア統治の本質である、という認識は形成されなかった。

インターネット・リサーチ・エージェンシーの工作構造

 報告書が情報操作の具体的事例として最も詳しく解剖するのが、2014年9月11日、米国ルイジアナ州セント・メアリー郡で展開されたコロンビア・ケミカル工場爆発デマ工作である。この日、郡内の住民に「有毒ガス警報:1時30分まで避難せよ。ローカルメディアおよびcolumbiachemical.comを確認せよ」というテキストメッセージが届いた。同時に複数のTwitterアカウントが工場炎上の写真、ガソリンスタンドの監視カメラ映像とされる爆発動画、CNNの報道スクリーンショット、ISILが犯行声明を出したとするYouTube動画を次々と投稿した。Twitterアカウント@zpokodon9は共和党政治コンサルタントKarl Roveに対し「これは本当にISISの仕業か?オバマに伝えてイラクを爆撃させろ!」とツイートした。郡の緊急管理局長Duval Arthurは朝から市民の問い合わせを受け続けたが、テキスト警報は当局からのものではなく、工場に確認すると爆発はなかった。

 New York Timesのジャーナリストであるチェン(Adrian Chen)の調査が明らかにしたように、これは単純ないたずらではなかった。数十の偽アカウントが数時間にわたって数百のツイートを投稿し、ターゲットを精密に選定した高度に組織化された偽情報工作だった。投稿者たちはCNNのスクリーンショットを加工しただけでなく、ルイジアナ州のテレビ局・新聞社のウェブサイトの完全なクローンを作成し、爆発を記録したとするYouTubeの動画はプロジェクトのために特別に制作され、「コロンビア・ケミカル爆発事故」に関するWikipediaページまで作成された。実際の郡内住民へのテキストメッセージ送信も伴っていた。報告書はこれが「プログラマーとコンテンツ制作者のチーム」なしには実行不可能な工作だったと指摘する。

 この工作の主体はサンクトペテルブルク郊外の施設に拠点を置くインターネット・リサーチ・エージェンシー(Internet Research Agency:IRA)だった。コロンビア・ケミカル工作は米国の情報空間に侵入し地上でパニックを引き起こす能力を試験する探索的演習として機能した。直後には、偽のエボラ感染拡大情報と、アトランタでの黒人女性射殺の偽情報が同様の手法で展開され、それぞれ加工動画とソーシャルメディアのハッシュタグ(#EbolaInAtlanta、#shockingmurderinatlanta)を伴った。

 2016年には、IRAはテキサス州の独立を主張するFacebookページ「Heart of Texas」を運営し、2017年に削除されるまでに25万フォロワーを獲得した。これは民主・共和両党のFacebookページの合計を上回る数値だった。2016年5月21日、Heart of Texasページはヒューストンのイスラームセンター前での「テキサスのイスラーム化阻止」デモを告知する広告を出稿した。同時に、同じくIRAが運営する「The United Muslims of America」ページが同一場所での「イスラームの知識を守れ」反デモを告知した。テキサス・トリビューンの報道によれば、当日両グループが組織した参加者がダウンタウン・ヒューストンのTravis Streetに集まり、対立と言語的衝突に発展した——全てサンクトペテルブルクから五千マイル以上離れた場所で設計された事態だった。

2016年選挙介入とグローバリゼーションの武器化

 2018年2月16日付けの米司法省によるIRAおよびその幹部13名に対する起訴状は、機関の目的を「米国の政治システム、特に2016年米大統領選挙への干渉」と明示している。起訴状が記述する工作の目的は「米国の政治システムに不和を播種すること」であり、2016年初頭から中頃にかけてはトランプ陣営への支援とヒラリー・クリントンへの攻撃が操作の中核となった。IRAはシェル企業のネットワークを通じて活動と資金を隠蔽し、2名の工作員がカリフォルニア・コロラド・イリノイ・ネバダ・ニューメキシコ・ミシガン・ルイジアナ・テキサス・ニューヨーク各州に実際に渡航して情報収集を行った。チェンはこれを「最先端のソーシャルメディア・マーケティング工作」と評した。

 この選挙介入は突発的なものではなく、2013年12月にクレムリンと関係の深いシンクタンク「戦略コミュニケーションセンター」(Center for Strategic Communications)が公表した政策文書から連続している。同文書は、西洋が多文化・非家父長的・LGBTQ+包摂的になるにつれ、これらの趨勢に反対する勢力の磁石としてプーチンを西側極右のアイコンに位置づけるべきだと勧告した。ロシアの政治分析家Aleksandr Morozovはこの報告書をコミンテルン(共産主義インターナショナル)の現代版と評し、「プーチンが孤立主義を望んでいると考えるのは誤りだ。それとは反対に、プーチンは新しいコミンテルンを作りつつある。これは過去の復元ではなく、全く新しいヘゲモニーの創出だ」と述べた。

 これらの工作を可能にした構造的条件として、報告書は冷戦後のグローバリゼーションと相互依存の逆機能を論じる。冷戦後の楽観主義は「経済的相互依存は紛争を抑制する」というテーゼ(カントの永遠平和論からアンジェル、Keohane・Nye『Power and Interdependence』まで連なる系譜)に立脚していた。しかしPomerantsev・Weissが2014年の影響力ある報告書The Menace of Unrealityで論じたように、モスクワはグローバリゼーションを「融和への衝動」ではなく「侵略のメカニズム」と見なしていた。「ネオリベラルなグローバリゼーション思想の前提が、金は政治的に中立で、相互依存は和解への動力になるというものであるなら、ロシアの見方はせいぜい重商主義的であり、金と貿易は武器として、相互依存は侵略のメカニズムとして使われる」とPomerantsev・Weissは記した。ドイツ・マーシャル基金(German Marshall Fund)傘下の安全保障民主主義同盟(Alliance for Securing Democracy)が2020年8月に発表した報告書は、ロシアをはじめとする権威主義体制が「過去10年間に33カ国で100回以上の民主的プロセスへの介入に3億ドル超を投じた」と算定し、年間介入頻度が2014年以前の2〜3件から2016年以降の15〜30件へと急増していることを示した。このような非対称的攻撃能力を持つに至った背景として、報告書はPomerantsev・Weissが導入する「raider」(реидер)という概念を引く。企業を取得し、暴力・贈収賄・ゆすりを含むあらゆる手段でその支配権を奪取するという旧ソ連型の企業収奪実践「reiding」——ロシアはこれをグローバリゼーションの内側から展開するreiderになったのだという分析である。

報告書の分析枠組みと限界

 報告書は歴史的類比として、英国の歴史家E・H・カーが第二次世界大戦直前の1939年に著した『二十年危機:1919〜1939』を参照軸に置く。カーは大戦間期を、旧来の自由主義的秩序が新たな政治・経済・軍事的現実に適応できなかったことから生じた国際システムの危機と捉えた。Whitmoreはこれを現代に援用し、1992年から2022年の「三十年危機」を、同様の構造的失敗として位置づける。西側はポスト・ソ連ロシアの性質と意図を誤読し、グローバル化した世界の含意を見誤り、旧ソ連諸国の歴史と志向を軽視し、国内政治と国際関係が二十一世紀において相互浸透する度合いと、そこに悪意ある行為者が介入できる余地を過小評価した——これが報告書の主張の骨格だ。

 この枠組みには留保が必要である。アトランティック・カウンシルはNATOの拡大・西側の対ロシア政策強化を一貫して支持する政策提言機関であり、本報告書もその立場性から自由ではない。「西側が何を誤ったか」という問いの立て方自体が、西側の行為を分析の中心に置き、ロシアの主体性を応答的なものとして相対化しうる。情報操作ドクトリンやIRAの工作構造に関する記述は豊富な一次資料・研究に基づいており参照価値が高いが、「なぜ西側はロシアを誤読したか」という設問が「どのようにロシアは情報工作を展開したか」という設問と並立して論じられる構造は、政策批判と操作分析の射程を混在させる。情報操作研究として読む際は、前者の章(第一章・第四章)に分析の核を見出し、地政学的通史の部分はその文脈として補助的に位置づけることが適切だろう。

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