オーストラリア上院の「気候変動・エネルギーに関する情報の誠実性特別委員会」(Select Committee on Information Integrity on Climate Change and Energy)が2026年3月24日に公表した最終報告書『The Integrity Gap: Restoring Trust in the Climate and Energy Debate』は、気候変動・エネルギー分野における偽情報の流通構造、これを担う組織ネットワーク、オーストラリア国内における具体的な事例を294ページにわたって記録した文書である。
報告書の概要と委員会の性格
委員会は2025年7月30日の上院決議で設置され、委員長は緑の党(Australian Greens)のPeter Whish-Wilson上院議員が務めた。副委員長は労働党のMichelle Ananda-Rajah議員。委員には国民党のMatthew Canavan、自由党のAndrew McLachlan、無所属のDavid Poocock各議員が加わり、Malcolm Roberts(One Nation党)とRalph Babet(United Australia党)が参加委員として関与した。調査は243件の提出意見を受理・公表し、2025年9月から2026年3月にかけてキャンベラ・メルボルン・シドニーで計10回の公聴会を開いた。
委員会の立場は読者が認識しておくべき性格を持つ。 多数派(委員長・副委員長・労働党議員)は「気候行動を組織的に妨害する偽情報キャンペーンが存在する」という前提に立った調査を展開しており、21の勧告はいずれもその方向性に沿っている。一方、Canavan・Roberts・Babetの3議員は報告書本体に収録されたDissenting report(反対意見書)の中で、調査の枠組み自体を「一方的であり、言論の自由を制約しようとする試みだ」と批判した。報告書が引用する証言・調査データはほぼすべて外部研究機関や提出意見に由来しており、委員会が独自のデータ収集を行ったわけではない。
「否定から遅延へ」:気候妨害の定義と進化
報告書が採用する中心概念は「気候妨害」(climate obstruction)であり、国際的な800人の学者による研究ネットワークであるClimate Social Science Network(CSSN)の定義—「IPCCの科学的コンセンサスに基づく適切な気候政策を遅らせ、または阻止しようとする意図的行為」—を起点としている。この概念は、従来の「偽情報」よりも広義であり、意図的なものに限らず戦略的な情報操作全般を含む。
メルボルン大学のDr. John Cook(シニアリサーチフェロー)は公聴会で、気候妨害の論法が「科学的否定」「ソリューション攻撃」「科学者・研究者への人身攻撃」の三類型に集約され、いずれも「ゆえに気候行動を遅延すべき」という結論に向かう構造を持つと証言した。オーストラリア国立大学のProfessor Christian Downieも同様の進化を指摘し、「気候変動は起きていない」という全面的な否定論から、「再生可能エネルギーは機能しない」「風力発電はクジラを殺す」といったソリューション攻撃への移行を「否定から遅延へのシフト」として描写した。
国連開発計画(UNDP)が整理した類型も報告書に記録されている:気候否定(自然変動の誇張、他の問題を優先させる論法)、気候遅延戦略(政策の費用対効果への疑義申し立て、不確実性の強調)、グリーンウォッシング(環境貢献の虚偽または誇張)、陰謀論的物語(気候科学・政策への隠れた議題の示唆)、チェリーピッキング。これに加えてProfessor Downieは「経済モデリングの操作」—再生可能エネルギーの実際のコストの5倍前後を示すような想定を用いた委託分析の公表—を独立した手法として挙げた。
キャンベラ大学のNews and Media Research Centre(NMRC)が2025年に実施した調査によれば、偽情報への懸念を持つオーストラリア人の割合は74%で「世界最高」であり、気候変動・環境は過去1週間に接触した偽情報のトピックとして35%が挙げた。CAAD(Climate Action Against Disinformation)とConscious Advertising NetworkによるオーストラリアBrazil・ドイツ・インド・英米の多国間調査(2022年10月)では、「気候変動は自然現象である」と信じるオーストラリア人が33%、「多数の科学者が原因について意見対立している」と信じる割合が37%、「電気自動車のバッテリーはリサイクルできない」と信じる割合も37%に達した。
誰が妨害しているのか:オーストラリアの行為者地図
QUT Digital Media Research Centre(QUT DMRC)はオーストラリアの気候妨害に関与する「中核的アクター類型」として、企業と業界団体、自由市場・保守系シンクタンク、反主流派科学者、反対連合とフロントグループ、PR会社、アストロタフ組織・キャンペーン、保守系慈善家・財団、保守系政治家、右派系メディア、否定論ブログとオンラインインフルエンサーの10類型を提示した。CSSNはこれに対応するオーストラリアの具体的アクターを以下のように列挙している。
企業・業界団体:ガス・石炭・電力セクターの排出集約型企業が中心である。WoodisideはACCUを長年にわたり反気候政策ロビー活動に利用してきた。Origin Energyはサフガードメカニズム改革に反対ロビー活動を行った。また、直接的な気候妨害とは従来結びつけられていなかった業界からの事例として、MercerSuperannuation(Australia)Limitedが2024年にASIC(オーストラリア証券投資委員会)から環境配慮型投資オプションに関する誤解を招く説明を理由に連邦裁判所で$1,130万(豪ドル)の制裁を命じられた案件が記録されている。業界団体ではMinerals Council of Australia(MCA)とAustralian Industry Greenhouse Network(AIGN)が1990年代から政府意思決定に影響を与えてきたとされ、自ら「GreenhouseMafia」と称したと記録されている。
シンクタンク:Centre for Independent Studies(CIS)、Institute of Public Affairs(IPA)、LibertyWorksが国際ネットワークAtlas Networkとの連関において言及される。PR会社:WPPとその豪州系列(Barton Deakin、Brand Agency)がWoodsideやSantosのキャンペーンを担当。Lawrence Creativeは2008〜2010年に石炭業界の排出権取引反対キャンペーンを支援した。また「Australians for Natural Gas」という2025年連邦選挙直前に出現したグループがPR会社によるフロントグループの事例として挙げられた。
Atlas Networkとトランスナショナルな妨害インフラ
報告書が最も詳細に記述するトランスナショナルな構造が、米国に拠点を置くAtlas Networkである。Climate Council of Australiaによれば、Atlas Networkは500以上の保守系シンクタンクを100カ国以上でネットワーク化した組織であり、「公共の利益のために行動する政府を妨害することを意図した協調した政治的メッセージングで公的言論を埋め尽くしてきた」と記録される。Coroniumはこの組織を「分散型グローバル影響力ネットワーク」として定義し、感情的メッセージング・反政府レトリック・経済的不安の強調という技法を用いながら「独立した分析」を装う訓練を参加シンクタンクに施す機能を持つと描写した。
QUT DMRCはIPA・CIS・Australian Taxpayers’ Alliance(ATA)のAtlas Networkとの連関を実証的文書として記録し、IPA・CISのMont Pelerin Society(MPS)会員資格、CIS創設者Greg Lindsay AO(元MPS会長)の存在を指摘した。IPA自身は公聴会でAtlas Networkへの所属を認めたが、「加盟の意味は非常に限定的」であり「Atlas Networkから財政的に依存しているわけではない」と証言した。CISは公聴会への出席を辞退し、書面で「政策活動がAtlas Networkの指示や資金に基づいている」との主張を否定した。
資金の追跡可能性に関する制約は報告書が繰り返し認める。メルボルン大学のDr. John CookとProfessor Downieはそれぞれ、ドナーアドバイザーファンド等を通じた資金の「暗闇化」(going dark)が進行していること、オーストラリアには米国と異なる政治資金開示義務が存在しないことを証言した。Coroniumは「オーストラリアと英米で、同一のトーキングポイント・キャンペーン素材・物語戦略がしばしば数日以内に共有される」と述べ、IPA等がHeartland Institute(米)やGlobal Warming Policy Foundation(英)のコンテンツを引用してきたことを具体例として挙げた。
IPAが2025年に内部メールで「net zeroの背骨を折り、net zeroはもはや死に体だ」「今週の展開はIPAの活動がなければ実現しなかった」と述べたことが委員会で取り上げられた。また、IPAが2015年にAtlas Networkの「Templeton Freedom Award」(賞金10万ドル)の「炭素税廃止」キャンペーン部門で最終候補6組に入っていた事実も記録された。スウェーデン人ジャーナリスト4名による提出意見は、ExxonMobilがAtlas Networkを通じてスウェーデンの自由市場シンクタンクTimbroに資金提供していたことを記録し、「スウェーデンとオーストラリアの両国において、Atlas Networkと連携した組織が協調的偽情報キャンペーンを展開し、効果的な気候政策を損なわせてきた」という類似性を指摘した。
アストロタフィング:2025年連邦選挙での実態
報告書ではアストロタフィング—「業界支援型組織が真正の草の根グループを模倣する慣行」—を独立した節として扱う。ARC Centre of Excellence for Automated Decision Making and Society(ADM+S)はこれを「2025年連邦選挙広告の画定的特徴」と位置づけ、広告支出の規模が「真正の小規模コミュニティグループに期待される水準を超えている」として以下の事例を分析した。
| 団体名 | 広告支出推計 | 主な主張 |
|---|---|---|
| Australians for Prosperity | $22〜29万 | 気候行動支持候補への標的型攻撃広告 |
| Australian Taxpayer’s Alliance | $20.6〜26.5万 | 反気候規制 |
| Mums for Nuclear | $4.9〜6.2万 | エネルギー価格・核エネルギー推進 |
| Australians for Natural Gas | $3.7〜5.4万 | ガスを地域エネルギー解決策として提示 |
Coal Australiaが連邦選挙期間中にAustralians for Prosperityへ$368万超を、2024年クイーンズランド州選挙に向けてAustralian Institute for Progress(保守系シンクタンク)に$61万3,500を提供したことが複数の提出意見で言及された。Coal Australia自身は電気通信開示要件への準拠を主張し、アストロタフィングへの関与を否定した。
Mums for Nuclearは「家庭のエネルギー費用に関心を持つ草の根組織」として自己提示したが、ADM+Sは国際的な核エネルギー推進ネットワークとの連関、AEC(オーストラリア選挙委員会)透明性登録への未登録を指摘した。Energy for Australiansは選挙直前に設立されたプロ核組織で、AECの「重要第三者」として登録されていたが、オンラインプレゼンスは2025年4月以前にはほぼ存在しなかったことが記録されている。
Brown University Climate and Development Labは「アストロタフを想定したうえで局所的な反再生可能エネルギー感情を分析する際の過剰単純化」について警告し、「企業的利益によってすり替えられるのではなく、真正なコミュニティの懸念が従来型の反気候権益によって加速・増幅・力付与される」側面を見落とさないよう求めた。
ケーススタディ:イラワラ沖洋上風力と「クジラ死亡」デマ
報告書が最も詳述するケーススタディがイラワラ沖洋上風力プロジェクトをめぐる偽情報の流通過程である。2024年6月、オーストラリア政府はニューサウスウェールズ州ウォンバラからキアマにかけての海域を洋上風力エネルギー区域に指定し、最大2.9GW(推計180万世帯分の電力)の発電ポテンシャルを持つと発表した。開発申請者BlueFloat Energyは同年8月に7年間のフィージビリティライセンスを申請した。
この過程でFacebookのコミュニティグループを主要な流通経路として複数の偽情報が拡散した。最も広範に流通したのが「洋上風力発電所は年間最大400頭のクジラを死亡させる可能性がある」という主張であり、これは実在しない研究として広まったことが記録されている。米国の著名な反再生可能エネルギー論者Michael Shellenbergerが製作したドキュメンタリー映画『Thrown to the Wind』がこの主張を流通させる中心的媒体となり、オーストラリアではSky NewsのコメンテーターAndrew Boltが主流メディアで最初にこれを取り上げ、その後多くの論者・政治家へ波及した。Facebookグループ「No Offshore Wind Farms for the Illawarra」はAI生成または画像合成による「風力タービンの周辺で死亡したクジラ」画像で埋め尽くされたとABC報道は記録している。また「UN乗っ取り」や「世界のエリートとの結びつき」という陰謀論的フレーミングも流通した。
委員会公聴会でNews Corp Australia会長Michael Millerと上席幹部Campbell Reidに対する質疑が行われ、Whish-Wilson委員長は「Boltのセグメントがこの偽情報をオーストラリアで主流メディアに最初に持ち込んだ」と主張した。ReidはこれについてBoltの放送が「公論の中でこれが論議され、反証される良いプロセスを可能にした」と応答した。News Corp Australiaは後に書面でBoltのShellenbergerインタビューは「視聴者が彼の意見を公論の一部として聞く機会を与えた」と説明した。一連の偽情報を受けて「クジラ観光業と漁業に従事するコミュニティメンバーは高まった恐怖と怒りを報告した」とClimate Capital Forumは提出意見に記録した。2024年、政府はイラワラの洋上風力区域をもとの3分の2のサイズに縮小し、沖合10キロ遠ざけた。2025年7月、BlueFloatは選挙後まで申請審査の延期を求めた後、グローバル事業からの撤退を発表し、イラワラ洋上風力プロジェクトは事実上終止した。
伝統メディア・SNS・AIのベクター分析
Climate Communications Australia(Climate Communications)は「気候ソリューションに関するオーストラリアメディアの偽情報指数」を開発しており、分析した記事の14%が気候ソリューションに関する偽情報または誤情報を含んでいたと報告した。気候ソリューション偽情報の比率が最も高い報道機関として、Sky News・The Adelaide Advertiser・Daily Telegraph・The Australian・Courier Mail・Herald Sun・Hobart Mercury・NT Newsが挙げられ、高度に集中した「1つのニュースグループ」に偏在する22のメディア媒体にわたって18種類の偽情報類型が確認されたとされる。CAADはCOP29前後の右派系オーストラリアメディアの報道分析として、Sky Newsが意見記事の形式を用いて「気候戦争」を批判する論調を展開した点を記録した。意見記事という形式が反気候的論点を「自社の見解としてではなく」拡散させる手法として機能していることを指摘している。
SNS上の影響力については、エコーチェンバーとアルゴリズムのエンゲージメント最大化設計、ボット・トロール・協調的不正行為(CIB)による意図的な偽情報拡散、多段的フロー(social mediaで浮上→伝統メディアが増幅→オフラインの日常会話に流入)の三つの経路が記録された。NMRCは「最も影響力のある偽情報は匿名のインターネットトロールではなく、メディアプラットフォーム内外で高い連結性を持つ著名なアクターによって共有される」ことを指摘した。
AIについては三種類のリスクが整理されている。AIモデルが既存の誤情報を非意図的に再生産するリスク、偽・誤・誘導コンテンツの意図的生成、偽情報の自動拡散による到達規模の飛躍的拡大である。Anthropicは公聴会で、Claude等のAI生成ツールは「レコメンデーションアルゴリズムを持たないプル型システム」であり合成メディアによる大規模拡散リスクが相対的に低いとしながら、Claudeが「影響力工作の自動化・スケール化に意図的に使用された」事例があることを明らかにした。また、Rainforest Reserves Australiaが本委員会を含む複数の議会調査への提出意見にAI生成の情報を使用し、実在しない風力発電所・廃止済み政府機関・存在しない学術論文への引用を含んでいたことが2025年10月に報道で発覚した事例が記録されている。
21の勧告と分断された委員会
委員会は21の勧告を提示した。国際連携に関しては、国連情報誠実性グローバル原則の採用とCOP30で発行された「気候変動情報誠実性宣言」への署名の二点が中心となる(勧告1・2)。オーストラリアは2026年2月時点で同宣言の23署名国に含まれておらず(EU・英・加・仏・独等が署名)、委員会はこの不参加を問題視した。
デジタルプラットフォーム規制については、精神社会的ハーモン(psychosocial harms)を法的に定義しプラットフォームに責任の所在を置く立法・規制改革の検討(勧告11)、ACMAへの報告データの改善(気候・エネルギー分野のテーマ別内訳・分母データ・削除措置・有料広告データの追加。勧告12)、研究者へのプラットフォームデータアクセスに対する法的保護(勧告13)が含まれる。選挙資金透明性については、連邦選挙直前の企業・商業的利益による第三者グループ創設の透明性確保の仕組みの検討(勧告4)が盛り込まれた。また、CSIRO(連邦科学産業研究機構)への再生可能エネルギーのコストベネフィット分析の提供要請(勧告18)、風力エネルギーの人体への影響に関する新規研究へのNational Health and Medical Research Councilによる資金提供(勧告19)も含まれた。
Canavan議員のDissenting reportは「この調査は真正な対話の精度向上に関するものではなく、人々を沈黙させようとする試みだった」「上院の目的の最大の濫用の一つだった」と断じた。Roberts議員のDissenting reportは「先入観、選択的な精査、偽情報・誤情報の名のもとでの検閲という保護された物語」に基づく調査であったとし、Babet議員のDissenting reportは「科学は決して決着しない」「気候科学の正統派に対する懐疑論を偽情報と等置することは言論の自由を脅かす権威主義的衝動だ」と主張した。Babet議員は2025年10月公表のClintel Declarationへの2000人以上の科学者・学術者の署名(オーストラリア人186人を含む)を引用した。Canavan議員は調査が「環境活動家組織への外国資金提供—Page Research Centreによれば1億800万ドル超—の検証を十分に行わなかった」点を将来の調査課題として挙げた。
これら反対意見の論点は偽情報研究の立場から直接反論可能なものを多く含むが、本報告書は議会での証言・提出意見を統合した調査文書であり、内容の正確性と解釈の妥当性についての最終的な判断は読者に委ねられる。


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