地中海地域のデジタルメディア環境を監視するMedDMO(Mediterranean Digital Media Observatory、地中海デジタルメディアオブザバトリー)が、2026年5月30日に実施されたマルタ総選挙を対象とした事後分析報告書「Malta 2026 general election watch: post-vote analysis」を公開した。MedDMOは欧州連合のDIGITAL Europeプログラム(契約番号101226175、DIGITAL-2024-BESTUSE-TECH-07)の資金提供を受けるコンソーシアムであり、選挙期間中に4本の週次ブリーフを発行し続けた監視活動の総括として本報告書を位置づけている。報告書は選挙前・選挙中・選挙後の三部構成を取り、AI生成画像を用いた扇動(スロパガンダ、slopaganda)、不審なドメイン群による疑惑の影響工作、プラットフォームの広告規制違反、無効票に刻まれた排外的言説、そして新内相人事をめぐる構造的懸念までを扱う。なお報告書自体が労働党(Labour Party、Partit Laburista)の活動により批判的な記述に重点を置く一方、対立する国民党(Nationalist Party、Partit Nazzjonalista)側の問題提起をそのまま採用する箇所も複数あり、両党に対する取材源の非対称性は記事内で随時明示する。また「疑惑の影響工作」の核心的証拠はMedDMOが別途公開予定の専門報告書に委ねられており、本報告書はその全体像を概観するに留まる点も踏まえておく必要がある。
何の報告書か
マルタのロバート・アベラ首相は2026年4月27日、任期満了の9か月前に5月30日投票の解散総選挙を発表した。これを受けて各政党は即座に選挙運動に突入し、看板広告、戸別訪問、集会、そしてAI生成のミーム広告に至るまで、デジタル・非デジタル双方の手法が動員された。マルタは労働党と国民党という二大政党が支配する政治構造を持ち、両党間の対立と分極化が虚偽・誤情報の温床となってきた経緯がある。今回の選挙では労働党が13年間の政権担当で初の4期連続勝利を果たしたが、対立候補との得票差は急速に縮小した。MedDMOは本報告書において、その結果に至るまでの過程をデジタル領域における偽情報・操作的言説の観点から検証している。
労働党政権13年の構造的背景
労働党は2013年の政権獲得以降、2017年・2022年と二度の地滑り的勝利を重ね、今回で4期連続政権を狙う立場にあった。報告書はこの13年間を経済成長と社会制度改革(同性婚と市民的結合の合法化、転向療法の禁止、検閲・名誉毀損法の見直し)の時期として一定評価しつつも、複数の構造的問題を併記する。第一に、経済成長の裏側で過剰観光と汚職による環境劣化が進み、後者は低賃金の第三国出身労働者による違法建設を可能にしてきたとされる。第二に、政府関係者や党系メディアによるジャーナリスト・活動家への個人攻撃が、労働党の4期連続勝利以降むしろ強まっているとTimes of Maltaの論説を引用して指摘する。
政治スキャンダルの系譜も詳細に記述されている。2016年、当時の閣僚(EU加盟国の現職閣僚としては唯一)と当時の首相首席補佐官がパナマ文書(Panama Papers)疑惑で名指しされた。2017年10月には調査報道記者ダフネ・カルアナ・ガリツィア氏が自動車爆弾で暗殺され、2021年の公的調査は国家が免責の文化を許容したとして責任を認定したが、政府は調査委員会の勧告を完全には実施していない。2024年には、2022年12月に建設中の工場が崩落しジャン・ポール・ソフィア氏が死亡した事案について、国家が再び責任を問われた。MedDMOは2024年10月の自社報告書において、政府がカルアナ・ガリツィア事件と同様の論法を用いて公的調査の開始を妨げようとし、世論の圧力でようやく譲歩した経緯を記録している。さらに、国営病院の民間コンソーシアムへの売却をめぐる大規模汚職事件では複数の政府高官が刑事訴追を継続中であり、2026年の選挙運動で存在感を示したジョセフ・ムスカット元首相や、今月外相に任命されたばかりのクリス・フィーン元保健相がこれに含まれる。
選挙前に観測された事象
MedDMOは投票日までの数週間、4本の週次ブリーフ(5月8日「AIスロパガンダとアイデンティティ政治」、5月15日「さらなるAIスロパガンダ、テイクダウン、プラットフォーム規約違反広告、ポピュリズム」、5月22日「パンドラの箱を開ける」、5月28日「追うべき物語」)を公開し、選挙期間中のデジタル環境を継続的に記録した。本報告書はこれらを整理し直す形で、以下の論点を提示している。
AI活用の党派間格差とハルシネーション
今回の選挙はマルタにとって、生成AIツールが広く普及して以降初めての総選挙となった。両党は政策説明用の視覚資料やクレイアニメ風動画の制作にAIを活用し、報道発表や論評文の中にもAIが全文生成したとされるものが含まれていたという。国民党は選挙公約の閲覧を補助するAIチャットボットを導入したが、このチャットボットがハルシネーション(hallucination、事実に基づかない出力の生成)を起こし、党自身の公約と矛盾するAI生成画像を出力する事態が発生した。報告書はこうした公式利用上の不具合よりも、非公式に拡散したスロパガンダの規模の方をより重大な論点として扱っている。
スロパガンダの非対称な標的化
報告書が最も重点を置く論点の一つが、AI生成画像による扇動コンテンツ、すなわちスロパガンダの拡散である。選挙運動開始から最初の一週間で、Times of Maltaは政治的対立者を揶揄・嘲笑するAI生成画像が出回っていると報じた。MedDMOの観測では、この種のコンテンツは二大政党のみを標的とし、小政党には及ばなかった。国民党に向けたスロパガンダは党首アレックス・ボーグ氏個人を直接標的とする傾向が強く、対照的に労働党に向けたコンテンツは党の評判や政策、選挙スローガン全般を対象とする傾向にあった。さらに国民党側を標的とするスロパガンダの量が労働党側を標的とするものより明確に多く、この種のコンテンツは両党支持者のFacebookグループ、すなわち極端化したエコーチェンバー内で主に拡散したという。
具体例として、国民党党首を「海を割るモーセ」になぞらえ、公共交通公約を揶揄する画像、同党首が電卓を前に頭を抱える画像、労働党の選挙スローガンを改変した看板の偽画像(これを本物の国民党看板と誤認した利用者が労働党支持者グループ内で拡散した事例)が挙げられている。MedDMOは2025年4月の時点で既に類似の現象を観測しており、当時は治安判事による予審改革法案への活動家の懸念を党派対立に矮小化するAI画像が労働党支持者によって用いられていたと記録している。
スロパガンダが「事実として信じさせる」ことを目的としないにせよ有害である理由として、報告書は感情への直接的な働きかけを挙げ、人々が事実より感情を記憶しやすい性質を利用している点を指摘する。比較対象として、米国のトランプ大統領が自身をキリストのような救世主的人物として描いたAI生成画像の事例(真実性ではなく「救世主」イメージの強化が目的とされた)が引用されている。
電卓モチーフの起源と組織的反復
選挙中の章で詳述される「電卓ナラティブ」は、選挙前の段階で既にその起点が形成されていた。労働党が国民党の選挙公約のコスト試算における「計算ミス」を指摘したことが発端となり、労働党はこのモチーフを自陣営の看板広告にも採用、国民党の選挙キャンペーンのブランディングを模した形でこれをパロディ化した。労働党支持者グループで共有されたスロパガンダは国民党党首が電卓に頭を悩ませる構図を繰り返し描き、同一の構図が後述する複数の不審なウェブサイトの投稿内容にも現れていたことが、報告書において組織的な物語拡散の傍証として位置づけられている。財務相自身、党の選挙運動にマスコットがあったとすれば電卓だっただろうと公言している。
TTPA規制下での広告規約違反
EUの政治広告の透明性・標的化規制(Transparency and Targeting of Political Advertising、TTPA、2025年10月発効)により、MetaやGoogleなどの超大規模オンラインプラットフォーム(Very Large Online Platforms and Search Engines、VLOPSEs)はEU域内での政治広告掲載を禁止している。しかし報告書は、両社が依然として政治広告として表示義務のないスポンサー付きコンテンツを掲載し続けている実態を指摘する。これはプラットフォーム自身の利用規約違反であり、TTPA体制への不遵守が組織的な偽情報キャンペーンの温床となりうる構造的リスクを伴うとされる。
具体的事例として、労働党系メディア企業ONE Productions Ltdが出稿した数百件の広告がGoogleの分類システム上「芸術・娯楽」「旅行・観光」「書籍・出版」といった非政治カテゴリーに分類されていた事実が挙げられている。Googleは通報を受けた広告への対応自体は迅速であったが、削除された広告は「Clive Farrugia」名義の出稿者によって即座に複製・再出稿される事象が繰り返し確認された。報告書は、当時首相府職員名簿に同姓同名の人物が存在したことを指摘しつつも、同一人物であるかどうかの確証は得られていないとして慎重な留保を付している。広告の詳細についてはMedDMOの別報告書「Ex-post analysis of the rapid response system during Malta’s 2026 general election」を参照するよう案内されている。
Net Newsへのスウォーミング通報と不審ドメイン群
国民党の主張によれば、同党系メディアNet NewsのFacebookページが組織的な大量通報、いわゆるスウォーミング(swarming)攻撃の標的となり、5月初旬に一時削除された。これは過去5か月間で二度目とされる事案であり、国民党がMetaに直接働きかけたことでページは復旧した。MedDMOはこの件を、プラットフォームのモデレーションプロセスに内在する構造的脆弱性の表れとして位置づけている。
さらに第4回ブリーフが単独で扱った論点として、選挙発表の前後に登録された複数の不審なドメインと、それに紐づくソーシャルメディアアカウント群の存在がある。本報告書執筆時点(6月中旬)で、これらのうち2サイトは既に削除されていたという。関連するソーシャルメディアアカウントについては、MedDMOチームが迅速対応システム(rapid response system)を通じて報告した結果、Metaが削除措置を取った。報告書はこれらのサイト・アカウント群を「組織的な影響工作を強く示唆するもの」と評価する一方、マルタ政治には2018年にThe Shift Newsが労働党支持者間のアストロターフィング(astroturfing、組織的な草の根偽装)と世論操作(manufacturing consent)を調査報道した先例があることに触れ、案件の複雑性を理由に詳細は別報告書に委ねるとしている。
選挙当日・開票時に観測された事象
アカウント復活と電卓ナラティブの開票時パフォーマンス
選挙前に報告された疑惑アカウント群のうち、Instagramアカウントの一つが投票日当日ないしその直前に再有効化されていたことが確認された。MedDMOは6月1日にMetaへ再度通報し、当該アカウントは再び削除された。報告書はこれもプラットフォームのモデレーション運用上の問題の再現例として扱っている。
開票当日、財務相クライド・カルアナ氏は労働党勝利確定の報を受け、開票会場で電卓を掲げながら担ぎ上げられる様子が同氏の公式Facebookページに投稿された。その直前には、国民党の財務担当議員エイドリアン・デリア氏との間で、件の電卓を手にした記念写真も撮影・投稿されている。デリア氏は2025年9月の国民党党首選でアレックス・ボーグ氏に約44票差で敗れた人物である。この一連の場面は、選挙前から続く電卓モチーフが公式・非公式の双方の経路を通じて一貫して反復されてきたことの最終的な符合として、報告書内で図版とともに整理されている。
無効票に刻まれた排外的言説
マルタの選挙では例年、投票用紙への書き込みによる無効票が一定数発生する。今回確認された事例の中には「No Indians, no Muslims(インド人もムスリムも要らない)」という排外的かつ人種差別的な文言が記載されたものが含まれていた。報告書はこれを、近年急増したマルタの第三国出身者人口、および選挙運動中に労働党候補として立候補したマルタ系シリア人候補をめぐる論争(後述)と直接結びつけて読み解いている。選挙運動の過程では首相と野党党首がともに「マルタに第二のモスクは不要」とする趣旨の発言で排外的感情に訴えかけた経緯があり、無効票の文言はその延長線上にある有権者の不満の可視化として位置づけられる。
アイデンティティ政治と国際資金の介入
選挙運動中盤、5月2日にマルタ系シリア人の候補者が労働党公認候補として出馬する旨をSNS上で表明したことを契機に、アイデンティティ政治をめぐる論争が公的議論を一時的に占拠した。虚偽情報とイスラム嫌悪(Islamophobia)的言説が拡散し、結果として当該候補は低調な得票に終わり当選しなかった。首相は当初この候補を支持する姿勢を見せていたが、選挙集会の場で、労働党が設計した1,000ユーロの「スーパーボーナス」が外国人労働者の大半を対象から意図的に除外する設計になっていると誇示する発言を行い、排外主義への姿勢の一貫性に疑問を投げかけた。これに対し国民党所属の欧州議会議員は、外国人が病院や交通機関を圧迫し賃金に影響を与えているとする、同様に不適切な内容の動画で応酬した。
選挙とは別の文脈として、世界最大の予測市場プラットフォームPolymarketにおいてマルタ総選挙を対象とする複数の市場が組成されていたことも報告書は記録する。マルタ国内では選挙結果に関する賭博は違法とされるが、実態として広く行われてきたとされ、Polymarketのような予測市場は法的グレーゾーンで運営されている。取引には規制当局による遮断が技術的に困難な暗号資産が意図的に用いられていた。報告書が引用する専門家コメントは、こうした予測市場が有権者の候補者認識や報道機関による選挙情勢の読み方に影響を及ぼしうる可能性を指摘しつつ、投票結果そのものへの実際の影響度は不明であるとしている。なお当該市場は労働党の勝利を予測していた。
選挙後に確認された結果と人事
労働党の勝利は同党にとって史上初の4期連続政権獲得となったが、得票差は2022年から大幅に縮小した。マルタ選挙管理委員会のウェブサイトに基づく数値として、報告書は今回の得票差を21,721票、2022年の得票差39,474票と対比し、労働党が2017年以降に12,532票を失ったとする推移を示している。
| 選挙年 | 労働党・国民党の得票差 |
|---|---|
| 2017年 | (2026年差に対し12,532票分労働党優位) |
| 2022年 | 39,474票 |
| 2026年 | 21,721票 |
この結果は野党党首アレックス・ボーグ氏にとって初の選挙戦であった。同氏はマルタの主要政党党首として史上最年少であり、かつ初のゴゾ(Gozo、マルタの姉妹島)出身の党首でもある。就任からわずか数か月での総選挙突入であったにもかかわらず、両党間の差を半減させる結果に寄与したとみられる。ボーグ氏はゴゾ選挙区において、アベラ首相本人を含む他のいかなる候補者よりも多い第一順位得票を獲得したが、報告書はゴゾが他選挙区より数千票多い特に係争性の高い選挙区である点を留保として付している。翌日の開票過程ではゴゾ選挙区の過半数獲得をめぐり両党間に見解の相違が生じたが、最終的には国民党が第一順位得票の過半数を確保したものの議席では労働党に及ばなかったことが確認された。
報告書はさらに、デジタルメディアオブザバトリーとしての職責に基づき、新内務・治安担当相人事についても言及している。アベラ首相はグレン・ベディングフィールド氏を同職に任命したが、ダフネ・カルアナ・ガリツィア氏暗殺をめぐる公的調査報告書は、同氏を暗殺前の非人間化・信用失墜キャンペーンにおける主要な実行者として特定していた。報告書本文は当該公的調査報告書から以下の趣旨を引用している。国家機関内、特に首相府内部に、当該ジャーナリストの取材活動を妨害し組織的な誹謗キャンペーンに加担した要素が存在したこと、そしてこの持続的な誹謗キャンペーンが最も強く表出した場がソーシャルメディアであり、その最悪の表現形態が首相府内の地位にあったベディングフィールド氏自身が開設・運営したブログであったことが、調査により認定されている。MedDMOはこの事実を踏まえ、暗殺された調査報道記者への組織的な非人間化・偽情報キャンペーンに関与した人物が、現在は国家の警察・軍・治安全般を統括する立場に就いていると総括している。
報告書の結論と評価上の留保
MedDMOは結語において、偽情報そのものは選挙運動の公的な争点としては扱われなかったものの、選挙運動の実態には確実に影響を及ぼしていたと総括する。最も重視される論点は疑惑の影響工作であるが、報告書はその出所について断定を避けている。今後公開予定の専門報告書では、当該サイト群とソーシャルメディアアカウント群が労働党に明確に好意的であったこと、一部が党の公約を自前の広告で直接宣伝していたこと、投稿が親労働党のFacebookページによって頻繁に共有されていたこと、そしてアカウントをフォローする少数の実在ユーザーの中に党の有力人物が含まれていたことが証拠として示される予定であるという。マルタには2018年の事例に代表されるアストロターフィングやトローリングの文書化された前歴があり、生成AIツールの普及がこうした隠密活動の常態化を今後加速させる可能性があるとMedDMOは警鐘を鳴らしている。
評価上の留保として、本報告書は単一の調査機関による速報的な事後分析であり、疑惑の影響工作に関する核心的な実証作業は別報告書に先送りされている。本記事で紹介した内容のうち、不審ドメインとアカウント群の組織性、Clive Farrugia名義広告の出稿主体の同一性については、MedDMO自身が断定を避けた仮説段階の情報であることに留意されたい。


コメント
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