本稿が紹介するのは、NATO戦略的コミュニケーション・センター・オブ・エクセレンス(NATO StratCom COE)が2026年4月に発行した報告書 Strategic Communications in Government: Putting Principles into Practice である。著者はDr Thomas Colley(キングス・カレッジ・ロンドン)で、Paula Matlach、Quentin Wightが追加調査を担当、Dr Christopher Paul(RAND)、Brett Boudreau、Dr James Pamment、Dr Neville Boltがコンサルタントとして参加した。
NATO StratCom COEはラトビア・リガに拠点を置くNATO認定の多国間研究機関であり、加盟国政府・軍人向けに戦略的コミュニケーションに関する研究・訓練・出版を行うことを使命とする。本報告書はNATO複数の加盟国からの要請を受けて作成されたもので、NATOおよびNATO StratCom COE自体の公式見解を代表しないと明示されている。
バイアス開示:NATO StratCom COEは政府のコミュニケーション能力強化を機関使命とする組織であり、本報告書の提言はその立場から構成されている。政府による戦略的コミュニケーション能力の拡大をデフォルトで肯定する枠組みであるため、市民社会の観点からの懸念(政府の情報管理・プロパガンダへの転用リスク)は相対的に軽く扱われている。
戦略的コミュニケーションの定義と原則
報告書は戦略的コミュニケーションを「価値観と利害に基づく包括的なコミュニケーション・アプローチであり、競争的環境において目標を達成するために政府組織が行うすべての言動を包含するもの」と定義する。コミュニケーションは意図的なメッセージ発信に限らない。別の政府と貿易を行うことも、拒否することも、メッセージである。被災地を訪問することも、無視することも、メッセージである。学校を開設することも、病院を閉鎖することも、メッセージである。
報告書が示す原則は六点——「すべてのものがコミュニケートする」(everything communicates)、オーディエンスの継続的・包括的な理解の維持、すべての省庁・機関への統合と縦横方向の調整、国家戦略目標との整合、短期的・反応的でなく長期的・能動的なアプローチの採用、開放性・透明性・説明責任というリベラル民主主義的価値の遵守——である。
この概念は1990年代に民間企業から輸入された。国連は1997年に「Global Vision, Local Voice」報告書でこれを採用し、ソマリア・ルワンダ・旧ユーゴスラビアにおける人道的失敗への反省を背景に、コミュニケーション機能を「組織の戦略的マネジメントの中枢」に置くことを勧告した。2001年9/11以降は米国・英国政府がアフガニスタン・イラク介入の正当化に活用しようとしたが、「何であるか」「誰がやるべきか」「どうやるか」をめぐる内部対立から米国は10年後に事実上放棄した。NATOは2017年に軍事政策(MC 0628)、2023年にドクトリン(AJP-10)として制度化し、より持続的な定着を実現している。
実装の障壁——マインドセット・プロセス・能力の三層分析
報告書は実装失敗のパターンをマインドセット・プロセス・能力(Mindset / Process / Capability)の三層で記述する。
マインドセットの壁
「すべてのものがコミュニケートする」という原則の普及における最大の障壁は、政治家が自分はすでに有能なコミュニケーターであると自認していることである。報告書はこの自認を完全には否定しない——選挙で選ばれた政治家は一般的にコミュニケーションに長けている。問題は、戦略的コミュニケーションが求めるオーディエンス理解の包括性と体系性が、政治家の直感的コミュニケーションとは次元が異なる点にある。
より深刻なのは、このマインドセットが政策立案者に届いていないことである。コミュニケーション担当者の証言によれば、政策チームは依然「政策立案は自分たちの責任で、コミュニケーションチームが有権者に売り込む」という分業意識を持つケースが多い。戦略的コミュニケーションの観点では、この区別は無効である——コミュニケートされたものはすべて、意図するかどうかにかかわらずオーディエンスに影響を与える。
長期・能動的アプローチの実践も構造的に阻まれる。ある実践者は、政府が公共支出削減を国民に説明する際「10年後の社会的利益」を訴えることを検討したが、選挙サイクルが近いために政治家に拒否されたと報告している。クライシス対応に追われるほど、戦略的コミュニケーションのマインドセットは「理想論」と見なされ、担当者が内部でバイインを獲得することが難しくなる悪循環が生じる。
プロセスの壁
官僚政治(bureaucratic politics)は省庁横断的な調整の最大の阻害要因である。ある実践者は、戦略的コミュニケーションを政府全体に浸透させるチームが設置されたものの、他省庁幹部はそのチームの提言を受け入れなかったと証言している——「自分たちにはすでに担当者がいる」という理由で。
集権化の程度も決定的である。英国は比較的中央集権的なシステムを持ち、閣僚は「集団的責任」原則により政府公式立場を受け入れるか辞任するかを求められる。政治的に中立な常任文官制度が行政の連続性を担保し、7000名超の政府コミュニケーション・サービス(Government Communications Service)が各省庁にコミュニケーション専門人材を配置、キャビネット・オフィスの中央チームが省庁横断的なコミュニケーションを指揮する。フィンランドでは首相府(PMO)が政府全体の一貫したメッセージ発信を担うよう求められているが、危機時を除いて各省庁への指示は勧告にとどまり強制力を持てない。
その他の事例として、ラトビアとエストニアは実質的に戦略的コミュニケーションに特化した中央集権的ユニットを持つ。スロバキアは2022年に戦略的コミュニケーション部門を設立したが、「核となるナラティブを伝達し他の公的機関を調整する権限を欠く」と評価されており、会合も自発的参加ベースにとどまる。ウクライナは「蜂の巣」型——文化情報政策省が方向性を示しつつ各省庁が独自チームを持ち、市民社会組織が重要な役割を担う。KlingováとHajduは「一つのサイズで全ての国に合うアプローチは存在しない」と結論づけており、各アプローチはその国の行政文化を反映する。
OECDが2021年に46政府のコミュニケーション担当者を調査したところ、政策チームと定期的に連携していると答えた者は半数未満だった。英国GCSは2021年のエンゲージメント・フレームワークで「コミュニケーション専門家がオーディエンス理解を活かして介入手段を助言する」分業モデルを示し、2023年のマネジメント基準ではさらに踏み込んで「戦略的コミュニケーション専門家は政策・業務・人事・プロジェクト実施の同僚と最初から共に作業すべきだ」と規定した。
能力の壁
理解能力(understand capabilities)の限界はある米国高官の証言が端的に示す——「コンテンツがどこで、どのように、どの言語で流通しているか追わなければならない。私たちはウクライナ語もロシア語も読めない。オンラインで入手できなければ見えない」。各省庁が独自のモニタリング・ツールを持ちながら連携しておらず、重複投資と情報の孤立が生じることも頻繁に報告される。
評価(evaluation)の実施率は特に低い。OECDの2021年調査(46政府)では、実際にサービスの利用状況を評価しているのは回答者の42%、コミュニケーション自体を評価しているのは16%という「懸念すべき低さ」の数値が示された。クリック数・閲覧数・いいね数といった安価で簡便な指標に頼る傾向があり、これらは行動や態度の変化について情報量が低い。James Pammentは、保有するコミュニケーション能力の全体像——どこに何があり、連携しているか、適切に資源配分されているか、有効か——を体系的に把握しなければ、透明性・説明責任・費用対効果・政策効果の測定はいずれも困難になると論じる。
LOGIC-Cフレームワーク
報告書の中心的貢献は、政府が戦略的コミュニケーション原則の実装障壁を分析し解決策を特定するための組織変革フレームワーク「LOGIC-C」の提案である。5つの主要要素と1つの横断的要因から構成される。
| 要素 | 目的 |
|---|---|
| L — Leadership | 戦略的コミュニケーションのマインドセット実装を指揮し、プロセスを確立し、コミュニケーションが国家戦略目標を支えることを確保する |
| O — Organisation | 政府省庁・機関がコミュニケーションを縦横方向に統合できる組織構造を確保する |
| G — Guidelines | 戦略的コミュニケーションのマインドセットと原則を確立し、政府全体に標準化・普及させる |
| I — Integrated Processes | 情報環境の理解、統合計画、実行、評価という循環プロセスを含む省庁横断的なコミュニケーション・システムを構築する |
| C — Capabilities | 戦略的コミュニケーションを実施するための具体的な技術・スキル・専門知識・リソースを確保する |
| C — Context | 戦略的コミュニケーション原則の実装に影響する政治的・文化的・社会的・技術的要因を考慮する |
これらの要素は相互依存的である。効果的なリーダーシップとガイドラインなしには、マインドセットの浸透もプロセスの開発も能力への投資も起きない。組織構造とプロセスなしには、職員訓練という形の能力開発も機能しない。フレームワークは処方箋ではなく、各国の政治システムの中で実践者が自ら適用できる汎用的な診断ツールとして設計されている。
英国の国家安全保障コミュニケーション・チーム(NSCT)の事例は構造設計の具体例として詳述されている。2018年の国家安全保障能力レビューを受けて「ファジョン・ドクトリン」が策定され、NSCTが設置された(Government Communication Serviceの上級職員が主な人員)。国家安全保障戦略・実施グループ(NSSIGs、後に統合レビュー実施グループと改称)が各省庁からの専門知識を統合し、各グループを率いる「上級責任担当者」(SRO)がコミュニケーションを政策決定の初期から組み込む。ある上級官僚は「今や、コミュニケーション担当者が部屋にいない会議で、安全保障アドバイザーが『今すぐコミュニケーション担当者を呼べ』と言うようになった。それは必ずしも明文化されていないが、組織的なアプローチとして定着している」と証言している。
フィンランド首相府(PMO)は分権型システムにおける実装経路の事例として分析されている。PMOはオーディエンス分析を行い、その知見を大統領を含む上級官僚に伝達する垂直プロセスと、各省庁に政府目標に沿った発信を促す水平調整機能の二層構造を担う。水平方向の調整は政治的分権化のために強制力を持てないが、PMOは「説得力ある推薦を行う」「他省庁のコミュニケーション計画に対して批判的助言を行う」「開放性と説明責任の文化をモデルとして提示する」ことで間接的な調整機能を果たす。連立政権の各政党が異なる省庁を所管するため意見の相違や非整合は構造的に生じやすいが、フィンランドは外交政策においては首尾一貫したナラティブを維持してきた。
理想的なコミュニケーション・プロセスは循環モデルである——情報環境・オーディエンスの理解(Understand)→計画策定(Plan)→実行(Execute)→効果評価(Evaluate)→理解の更新。英国GCSのOASISフレームワーク(Objectives・Audience Insight・Strategy/Idea・Implementation・Scoring/Evaluation)、「現代的コミュニケーション」ドクトリンの「4I」(Insight・Ideas・Implementation・Impact)はこの循環の制度的実装例である。報告書はこれらのモデルが確立されていても失敗する主因として、オーディエンス理解プロセスの資源不足・省庁間での連携不足、評価が散発的・投機的・資源不足にとどまることを挙げる。
能力の評価には「目標(Objectives)・指標(Indicators)・リスク評価(Risk Assessment)・プロセス成熟度(Process Maturity)」の4軸フレームワークを示す。英国の紛争・安定・安全保障基金(CSSF)は省庁横断的な資金源として機能し、NSCTがオーディエンス分析プラットフォームや「各省庁が単独ではリスクを取らない実証概念キャンペーン」に活用している。生成AIはオーディエンス分析・評価プロセスの効率化に潜在力を持つが、活用するにはそれを受け入れるマインドセットと倫理的使用のための訓練が前提となる。英国GCSは2024年9月に生成AI利用ポリシーを配布し、事実の正確性確保・誤導コンテンツの禁止・AI対話時の市民への開示義務を定める一方、アイデア出し・初稿作成・複雑なトピックの要約・自動字幕・翻訳・FAQ作成・リスク特定への活用を奨励している。
文脈要因——フレームワーク実装の制約条件
LOGIC-Cフレームワーク全体を形成する横断的要因として、報告書は政治・文化・社会・技術の4次元を分析する。
政治的文脈は、集権化の程度・連立政権の有無・憲法上の制約によって実装可能性を規定する。報告書は逆説的な命題を明示している——「民主主義的チェックアンドバランスが強固なほど、調整された戦略的コミュニケーションは困難になる」。
文化的文脈として、組織文化の問題は特に重要である。コミュニケーションが専門的分野として過小評価され、情報・コミュニケーションの重要性が国家権力の観点から軽視される組織では制度化は困難を極める。米国では2000年代初頭、世界大戦期のプロパガンダへの歴史的記憶が概念の普及を阻害した。
社会的文脈として、報告書は民主主義の正統性の危機を中心に据える。社会の分極化が進むほど、異なる市民集団が「平行する現実」に生きる状態が強まり、単一の明快なナラティブを一貫して発信するという伝統的モデルは有権者の一部にしか届かなくなる。「社会が分極化するほど、戦略的コミュニケーションの必要性は高まるが、成功させることは難しくなる」という命題が導かれる。
技術的文脈については、報告書は「情報環境が今日どのように機能しているか」の具体的理解を求め、多くの政府文書が「複雑化」「非線形性」を定型文として列挙するのに対し「改善イニシアティブの具体的指定が必要だ」と批判する。政治的・技術的変化の組み合わせが生む構造問題の例として、Metaがサードパーティ・ファクトチェッカーとの協力を停止したことが挙げられる。多くのファクトチェック機関はMetaの資金に依存していたため財政的に脆弱であり、その縮小は政府が間接的に恩恵を受けていた偽情報対策能力を損なう。ソーシャルメディアは声の大きいアクターに支配される傾向があり、大多数のユーザーは発信せず閲覧のみに留まるため、プラットフォーム上のデータは世論の正確な指標になり得ない——アルゴリズムの優先順位が大幅に変化すれば、センチメントの変化は必ずしも世論や行動の変化を反映しない。
より広い文脈として、権威主義的なコミュニケーション手法が民主主義国家に拡散する傾向も指摘される。政府が自己に都合の良いタイミングで偽情報を流布することに慣れていくほど、戦略的コミュニケーションを推進する担当者は自国政府内部・同盟ネットワーク内部からも抵抗を受けるリスクが高まる。開放性・透明性・説明責任というリベラル民主主義的価値がプロパガンダとストラテジック・コミュニケーションを区別するものであり、その価値への固執が民主主義的機能として不可欠だと報告書は主張する。
評価と含意
本報告書の一次的な貢献はLOGIC-Cという診断ツールの提供である。特定のモデルを強制せず、各国の政治システムに応じた適用を促す設計になっている点は実践的価値を持つ。英国・フィンランド・ウクライナ・ラトビアなどの具体的事例が抽象性を補完しており、集権型・分権型双方での実装経路を示している。
読者が留意すべきは、本報告書が政府の戦略的コミュニケーション能力強化を所与の善として位置づける立場から書かれている点である。政府が「オーディエンス理解」を深め「戦略的ナラティブ」で社会を統一しようとするとき、それが民主主義的説明責任と透明性の強化に向かうのか、政府による情報管理の高度化に向かうのかは、このフレームワーク自体が答える問いではない。報告書末尾で「リベラル民主主義的価値への集中こそが戦略的コミュニケーションをプロパガンダと区別するものだ」と明示しているが、その境界線をどこに引くかは各国の政治・制度的条件に依存する。
OECDデータが示す評価実施率16%、「コミュニケーション担当者は政策決定の後に呼ばれる」という構造的問題、ファクトチェック機能の縮小という文脈要因——これらは本報告書が直視する問題群として整理されており、政府のコミュニケーション体制と偽情報対策の制度設計を研究する上での実証的な出発点を提供している。

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