「偽情報対策」が奪っているもの

「偽情報対策」が奪っているもの 偽情報対策全般

 誤情報への対処は、もはや世界中で最優先の政策課題の一つとされている。ファクトチェックの強化、プラットフォーム規制の整備、検出AIの開発。だが、こうした取り組みの多くは、何を守ろうとしているのかについて、あまりにも素朴で、あまりにも一方的な前提に立っている。

 トロント大学・マンチェスター大学・メルボルン大学が共同で刊行した2025年のレポート『Beyond Disinformation』は、この前提そのものに鋭く切り込む。「偽情報にどう対処するか」ではなく、「偽情報という言葉が、何を黙らせているか」を問うことで、従来の議論が見逃してきた構造的抑圧の全体像を描き出している。


その「誤情報」は、なぜ語ってはいけなかったのか

 このレポートの最大の特徴は、「誤っているから消す」という発想が、常に正当であるとは限らないという立場に立っていることだ。

 たとえば、ディアスポラが祖国での迫害や戦争犯罪について証言しようとするとき、それは事実確認が困難な内容となることが多い。証拠は乏しく、語りは断片的だ。だが、そのような投稿がSNSの通報システムによって「偽情報」として削除されるとき、そこでは何が起きているのか。

 それは単なる誤情報対策ではなく、歴史の語りが抑圧され、記憶の共有が断ち切られる瞬間である。そしてその判断を下すのは、国家ではなく、しばしばアルゴリズムと集団通報である。

 この構図を通じて、報告書は「偽情報」という言葉そのものが、誰が語ることを許され、誰が沈黙させられるかを選別する政治装置になっていることを示す。


誤情報対策が「統治の兵器」と化すとき

 続いて報告書が描くのは、「偽情報対策」が法制度と結びつくことで、いかにして体制に都合のよい統治手段になっていくかという過程である。

 たとえば、多くの国では「フェイクニュース法」と呼ばれる新しい法規制が登場しており、それが国家の正統性に対する批判を抑え込む手段として使われている。政府が「誤情報」と認定すれば、それは事実であっても罰則の対象になりうる。

 さらに興味深いのは、この手法がテンプレート化して他国へと輸出されているという点である。つまり、偽情報法制はもはや各国の個別対応ではなく、グローバルな「統治パターン」として再生産されている。

 このように、誤情報対策が単なるリテラシー教育やモデレーション改善にとどまらず、政治的統制と結びついた構造的技法になっているという点は、本レポートの中でもとりわけ強い警告として機能している。


非国家アクターによる抑圧と、誰にも責任が取れない構造

 もう一つ重要なのは、「誰が検閲しているのか」が特定できない事態の広がりである。報告書は、国家が直接弾圧するのではなく、民間アクターを通じて間接的に情報統制を行う仕組みに注目している。

 プラットフォーム企業が広告収入や利用規約の名のもとに投稿を削除する。特定の言説に組織的な通報が集まり、自動的に可視性が落ちる。これらはいずれも国家の命令ではない。だが、国家がそれを積極的に活用することで、検閲の責任を回避しながら統制を実現できてしまう

 しかもこの構造は、権威主義国だけでなく、リベラル民主主義国家でも広がっている。その意味で、報告書はもはや「専制国家 vs 自由社会」という対立軸そのものがもはや通用しないことを暗に告げている。


情報空間はもはや「市場」でさえない

 さらに後半では、プラットフォームをめぐる地政学的支配と経済的競争が、情報空間のあり方をどう変質させているかが語られる。ここで登場するのが「マーケットクラフト」という概念だ。

 これは市場が自律的に成立しているのではなく、国家によって戦略的に設計される空間であるという立場であり、その市場設計が情報秩序と不可分になっているという視点である。

 たとえば、AI規制、データローカライゼーション、サプライチェーン再編といった経済政策は、同時に情報の流れ・利用・表現の自由度に直結する。報告書はこうした戦略が、「表現の自由が保障される情報空間」をごく限られた範囲にしか残さない結果を生んでいると警告する。


このレポートが突きつけているもの

 この報告書が提示しているのは、「偽情報をどう消すか」という表層的な問いではない。それはむしろ、「誰が語ることを許され、誰が語れば“偽情報”とされるのか」という問いである。

 そして、その問いはジャーナリズム、法制度、アルゴリズム、経済戦略といったあらゆる領域にまたがっている。ファクトチェックが唯一の正義であるかのような現在の構図に対して、このレポートは明確に距離を取り、「何が抑圧されているのかを問う視線そのもの」を取り戻そうとしている。

 単なる警鐘ではない。これは、「偽情報対策」の正しさが語られるたびに、失われているものが何かを可視化する試みである。そしてその視線なしに、我々が守ろうとしているはずの「自由」や「参加」は、空疎な言葉になりかねない。

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