2022年のロシアによるウクライナ侵攻は、物理的な戦争にとどまらず、情報空間での戦いを激化させた。爆撃や銃撃と並行して行われたのは、虚偽情報・陰謀論・誘導的なナラティブをめぐる「見えない戦争」だ。そしてその最前線に立ったのが、ミームである。
英国ノッティンガム・トレント大学とデンマーク・オーフス大学の研究者によって作成された報告書『The Complex Web in Memetic Warfare』(2025年7月発行)は、ミームという一見「軽い」表現形式が、いかにして戦時下における政治的・文化的抵抗の武器となるのかを、徹底的に分析している。
本稿では、報告書が示した主要な知見──特に「NAFO(North Atlantic Fella Organization)」という草の根運動がいかにして情報攪乱に対抗し、国際的連帯を築き、戦争の語りを再構成したか──を紹介する。
1|「NAFO」とは何か──シバイヌとサブカルが情報戦の武器になるとき
「NAFO」は「NATO」のもじりであり、中心にいるのは軍隊でも国家でもなく、犬(Shiba Inu)をアバターにした匿名ユーザーたちである。2022年5月、ポーランドのXユーザーが、ウクライナへの寄付と引き換えにシバイヌのアイコンを提供したのをきっかけに発足。以来、NAFOはロシアの偽情報をミームで風刺し、寄付と連帯を促す分散型コミュニティとして急速に拡大した。
組織としての指導部は存在せず、参加条件も「ウクライナ支援」という広範な志向に過ぎない。X、Reddit、Telegram、Discordなどを横断しながら、参加者は自発的に投稿、共有、報告、寄付などを行っている。
2|メメティック・ウォーフェアとは何か──笑いと嘲笑の中の戦争
報告書では、ミームを使った情報戦を「メメティック・ウォーフェア(memetic warfare)」と定義する。これは「情報操作の一形態であり、ミームや視覚メッセージを通じて世論・ナラティブ・敵対的勢力への認識に影響を与える戦略的行為」である。
特にNAFOは、「防御的ミーム戦術」を展開することで、以下の機能を果たしている:
- ロシア発の虚偽情報を笑いと嘲笑で解体する
- ウクライナ支持者の間で感情的連帯を築く
- 戦争のリアルをわかりやすく可視化する
- 寄付や発信を促すきっかけを作る
たとえば、「第二の軍事大国」と称されたロシアが無様に敗北する様子を「ウクライナで第二の軍事力」として風刺したり、「You pronounced this nonsense, not me」など、ロシア側の英語の言い回しを逆手に取ったミームが拡散された。
3|デジタル市民の戦争参加──NAFOの構成と行動
報告書では255名のNAFO参加者に対する調査を実施し、さらにNAFOメンバー18名、ウクライナ市民21名へのインタビューを通じて、NAFOの行動と動機を詳細に描き出している。
● 行動の広がり
- ミームの制作・拡散
- ウクライナへの寄付
- 敵対的投稿の報告(通称「bonking」)
- 情報の翻訳・再発信
- 政治家・メディアへの働きかけ
● 使用プラットフォームの分布(複数回答)
- X(旧Twitter):94名
- Reddit:86名
- Facebook:54名
- Discord:50名
- Telegram:40名
● 参加者の動機(自由記述からの分類)
- 「戦争に対して自分ができることをしたい」
- 「民主主義と自決権の防衛」
- 「ロシアの情報操作に対する怒り」
- 「連帯とユーモアで心を保つため」
4|「笑い」が持つ政治的力──ユーモアとナラティブの戦場
NAFOの戦術の中核にあるのはユーモアと風刺である。報告書では、これが単なる娯楽ではなく、むしろ強力な情報武器であることを強調する。
ユーモアは情報攪乱に対する直接的な反論ではなく、「真剣に受け取る価値すらない」と敵の語りを脱価値化する力を持つ。これによって、ロシアのプロパガンダに対し議論で負けることなく、笑いで勝つという新しい対抗手段が出現した。
あるNAFOメンバーはこう述べている:
「議論に引きずり込まれる必要はない。漫画の犬とやり取りし始めた時点で相手は負けている」
5|ミームの倫理──「笑っていいライン」はどこか
しかし、メメティック・ウォーフェアには倫理的な限界もある。報告書は、グラフィック画像(死体・戦争犯罪)を含むミームの是非について、NAFO内部でも意見が割れていることを示している。
- 「現実を見せるべき」「ショックが必要だ」と主張する派
- 「被害者の尊厳を守るべき」「トラウマを避けるべき」とする慎重派
多くの参加者が「レイプや拷問をネタにすることは許容されない」と述べ、NAFO内には**一定の内的規範(コード・オブ・コンダクト)**が存在することも明らかになっている。
6|可視化された効果──ウクライナ社会からの応答
インタビューに応じたウクライナ市民の証言からは、NAFOの活動が単なる「西側の応援団」ではなく、実際の被害地にいる人々にとっても心理的支えとなっていることが分かる:
「攻撃の直後に見たミームが、笑わせてくれた。世界はまだこっちを見てくれていると感じた」(ウクライナ人インタビュー04)
「私の母は72歳で、テレグラムも使えなかった。でも今は危険な投稿を避ける術を学んだ。リテラシー教育はもっと必要だ」(ウクライナ人インタビュー14)
7|国家にできないことを市民が担う──報告書の意義
本報告書の結論は明快だ。ミームは「冗談」ではない。政治的なメッセージの最前線であり、情報攪乱の攻防線であり、市民による文化的防衛線でもある。
報告書は以下のような政策提言を行っている:
- ミーム拡散の経路可視化技術の開発
- 防御的ミーム戦略の理論化と支援
- AI時代に対応したメディア・リテラシー教育の強化
- SNSプラットフォームの規制強化と自動再生オフなどの設計改善
終わりに──「戦う犬たち」とソフトパワーの再構築
ミームは軽薄ではない。それはナラティブを取り戻す武器であり、国家が発信できない声を届ける手段であり、連帯と批判と希望を同時に表現するメディアでもある。
NAFOは、冷笑ではなく倫理的なユーモアを通じて、ウクライナをめぐる国際世論の空間を再設計してきた。もはや戦争は銃弾と爆弾だけで行われるものではない。メッセージと画像と、そして笑いの力が戦況を変えることもある。
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