2025年9月にアメリカ法曹協会(ABA)が公表した報告書「American Bar Association releases final report of the ABA Task Force for American Democracy」は、アメリカ民主主義が直面する危機を多角的に整理した包括的な提言である。選挙制度、司法制度、市民教育、報道やSNS、そしてサイバー空間といった幅広い領域にわたり、12の勧告が示されている。もともとの焦点は「民主主義の制度的脆弱性と法曹界の責務」にあり、偽情報だけを専門的に扱った文書ではない。だが、その中で偽情報は極めて重要なテーマとして扱われており、AIやディープフェイク、国外勢力による影響工作、さらには司法制度の悪用まで、異なる次元の課題が整理されている。
偽情報の位置づけ:三つの位相
報告書が示す偽情報の構造は、単純な「虚偽情報の拡散」という枠を超えている。
- AIとSNSによる情報流通の変質
- 国外勢力による攻撃的利用
- 裁判制度を通じた制度的延命
この三層構造を軸に、報告書は具体的な法制度、規制、実務の提案を展開している。
1. 報道とソーシャルメディア:開示義務による規制
まず注目されるのが、Recommendation G(報道とソーシャルメディアの役割)だ。ここでは「フェイクニュースを国家が直接禁止することは表現の自由の観点から危うい」としたうえで、最も合憲性を保ちやすい対応策として「開示義務」(ディスクレーマー)を中核に据える。
- ウィスコンシン州(2024年3月成立 A.B.664)
選挙運動に関与する候補者委員会やPAC、政党がAI生成コンテンツを使う場合、必ずディスクレーマーを表示しなければならない。違反には1,000ドルの罰金が科される。対象範囲は広く、音声や動画を含め「全部または一部が生成AIによって作られたもの」を合成メディアと定義している。 - アリゾナ州(2024年5月成立 H.B.2394 / S.B.1359)
対象を候補者や公職者になりすました生成物に限定。S.B.1359は選挙90日前に拡散されたコンテンツに対して刑事罰を設け、H.B.2394は民事訴訟による差止・損害賠償を可能にする。風刺やメディア表現、通信事業者(CDA 230で保護される)などは適用除外。 - 連邦法案:Protect Elections from Deceptive AI Act(S.1213)
「実質的に欺瞞的」なAI生成メディアの頒布を禁止し、候補者に民事的救済(差止や損害賠償)を認める。ただし刑事罰は設けていない。報告書は、この法案が「選挙情報の保全に資する防波堤」となりうると支持を表明している。
つまり、報告書は「国家が真偽を裁定するのではなく、市民に情報源を明示することで判断を委ねる」というモデルを前提に、既存の州法と連邦法案を位置づけている。
2. テック企業の自主規制と限界
偽情報対策は国家や州の法制度だけでなく、産業界の取り組みにも依拠している。報告書は、2024年2月のミュンヘン安全保障会議におけるテック・アコードを紹介する。ここでGoogle、Meta、Microsoft、OpenAI、TikTokなど27社が、生成AIの誤用防止や選挙関連リスク評価、検出・対応、透明性、市民社会との連携を約束した。
しかし報告書は、このアコードには拘束力がなく、透明性や執行の仕組みも欠けていると指摘する。自主規制の枠を超え、法的拘束力をもった透明性基準が必要だと訴える点は、偽情報研究者にとって注目すべき提言である。
3. 報道機関の実務規範:結果報道の言語運用
報告書はまた、報道機関が偽情報を増幅しないための具体的な運用も細かく書いている。選挙報道で「call(当確)」と「project(予測)」を混同せず、開票率を「投票総数のうち何%が開票済みか」で表示することを推奨している。郵便投票が増えた現在、「開票所の何%が処理済みか」では誤解を招くためだ。
さらに、ニューヨーク・タイムズが陰謀論監視・検証チームを設置し、NBCが「Vote Watch」チームを作って接戦州の偽情報を監視した事例も紹介している。こうした報道実務の改善は、偽情報の拡散を防ぐ第一線の防波堤と位置づけられている。
4. サイバー空間:偽情報と攻撃の結合
Recommendation H(サイバー空間の役割)では、偽情報がサイバー攻撃と結合して選挙インフラを揺るがすという視点が強調される。
- 2016年のロシアの攻撃を契機に、選挙インフラは「重要インフラ」に指定され、CISAが中心的役割を担うようになった。
- それでも州レベルでは紙の証跡が不十分なところが多く、信頼回復のためには手書き式の紙投票とリスク制限監査(RLA)の導入が不可欠だとする。
- 技術的には、ネットワークのインターネット非接続化、2要素認証、機械学習による異常検知、MS-ISACやEI-ISACでの情報共有、週次の脆弱性レポート活用など、かなり具体的な「サイバー衛生」の手順が推奨されている。
ここでは、偽情報を単なる「言説空間の問題」ではなく、物理的な重要インフラ防御と同列に置くという認識が打ち出されている。
5. 裁判制度の悪用:濫訴と偽情報の延命
最後に、Recommendation J(選挙関連の濫訴抑制)で扱われるのは、偽情報が裁判制度を通じて延命される問題だ。
- 2020年以降、選挙訴訟は急増し、2024年投票日前にはすでに2020年の通年件数を超えていた(2024年11月5日時点で217件)。
- 訴訟は短期間で大きく報道され、たとえ敗訴しても「訴えが存在した」という事実が陰謀論を栄養する。
- 報告書は、州レベルで反SLAPP法に類似した早期却下や費用回収の仕組みを整備すべきとし、ニュージャージー州やニューヨーク州の規定を具体例に挙げる。
- さらに、連邦民事訴訟規則Rule 11などを活用して弁護士や原告に制裁を課し、無根拠訴訟を抑止するよう勧告している。
つまり、偽情報が法廷を通じて「正当性」を帯びてしまうことを防ぐため、司法制度そのものを調整すべきだと述べている。
結論:偽情報を三層で封じ込める処方箋
この報告書は、偽情報を
- 表現の次元(AI・SNS)
- 攻撃の次元(サイバー・外国勢力)
- 制度の次元(裁判制度)
という三つの経路に分け、それぞれに具体的な処方箋を示している。州法による開示義務、連邦法案による民事救済、サイバー防御と監査制度、報道の実務改善、そして濫訴抑止の司法改革である。「民主主義の危機」という大枠の議論の中で、詳細に偽情報への対抗策を位置づけている。


コメント
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