国際司法裁判所(ICJ)も情報戦の舞台になる──ウクライナ対ロシア裁判に見る「偽情報の使い方」

国際司法裁判所(ICJ)も情報戦の舞台になる──ウクライナ対ロシア裁判に見る「偽情報の使い方」 情報操作

 2024年に国際司法裁判所(ICJ)で出されたウクライナ対ロシアの二つの判決は、法廷での争いであると同時に、情報空間をめぐる戦いでもあった。
 ロシアはこの裁判を「勝つため」ではなく、「負けなかったことを印象づける」ために利用している。重要なのは、裁判の中身ではなく、その“伝わり方”なのだ。

 以下で紹介するOSINT for Ukraineにより2025年3月に公開したレポート『Ukraine v. Russia: Examining Disinformation Narratives Around the ICJ Cases』は、ICJ判決をめぐる偽情報の生成と拡散の構造を精緻に分析している。そこから見えてくるのは、法律用語・証拠の定義・SNS言語・メディアのタイトル……あらゆる要素が偽情報の燃料となる、重層的な情報戦の構図である。


証明責任の逆転と「していないことの証明」という罠

 ジェノサイド条約に関するウクライナの訴えに対し、ICJは「ウクライナがロシア語話者へのジェノサイドを行っていないこと」を証明する責任をウクライナ側に課した。
本来であれば、ジェノサイドを主張したロシア側に証拠を求めるべき構造が、反転してしまっている。

 このねじれをロシアは利用する。「裁判でジェノサイドが争点になった」という事実だけで、「ウクライナは怪しい」と印象づけるためだ。証拠がなくても、「疑いをかける」だけで情報戦では十分な効果がある。


“オープンソース証拠”の悪用と「証拠らしきもの」

 ロシアが今後提示する可能性があるのは、SNS投稿や政治家の発言といった“オープンソース”情報。南アフリカがイスラエル提訴で使った「アマレクを滅ぼせ」と叫ぶ兵士の動画が、証拠として受理されたことが前例となる。

 ロシアが引用しそうな人物の一例として、極右政治家イリーナ・ファリオンが挙げられる。彼女の発言を切り取り、「ウクライナには排外主義的な空気がある」と構成すれば、それらしく見える“証拠”の出来上がりだ。

 重要なのは、ICJが最終的に認定しなくても、裁判の過程でこうした素材が引用されるだけで、SNS上では「国際裁判で取り上げられた」という形式的正当性が生まれてしまう点にある。


SNSのナラティブと「勝敗の物語」

 ICJの判決後、SNS上には「ロシアの勝利」「ウクライナの敗訴」といった定型句が大量に拡散された。代表的なものには以下のようなものがある:

  • 「ICJはロシアを侵略国とは認めなかった」
  • 「ウクライナはジェノサイドを認定されかけている」
  • 「DPR/LPRはテロ組織ではないとICJが明言した」

 これらはロシア外務省の公式声明と一致しており、情報統制されたナラティブがSNSに流れ込む過程を如実に示している。裁判結果そのものよりも、「勝敗をどう語るか」の戦略が主戦場になっている。


メディア見出しが偽情報の導火線になる

 偽情報は意図的な嘘だけではない。たとえばReutersやFrance24が使った見出しはこうだ:

  • “Clearly a victory for Russia”(France24)
  • “ICJ rejects most of Ukraine’s ‘terror’ case against Russia”(Reuters)

 本文ではロシアに対する一定の違反認定にも言及しているが、見出しと冒頭数行だけを読むと「ウクライナの全面敗訴」の印象が残る。こうした構造的ミスリードは、SNS上の誤解を強化し、偽情報と手を結ぶ。


情報空間の主戦場化

 このレポートが最も重要視するのは、「裁判の外での効果」である。
 ロシアの戦略は、法的勝利ではなく、情報戦における印象操作によって、西側諸国のウクライナ支援を削ぐことにある。
 たとえば、2025年1月に再選されたアメリカ大統領ドナルド・トランプが「ゼレンスキーは独裁者だ」と語る構図は、ロシアが展開してきたナラティブと見事に重なる。


 このレポートが明らかにしているのは、「裁判」はそのまま「情報戦」になりうるという現実だ。法廷に提出された“証拠”の背後には、それが「どこでどう報じられ、誰にどう読まれるか」という設計がある。ICJが争点であっても、ICJ“だけ”が舞台ではない。

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