脱炭素をめぐる情報空間において、近年もっともやっかいなもののひとつが、「再生可能エネルギーこそが自然を壊す」というタイプの言説である。オーストラリアのWWFとAustralian Conservation Foundation(ACF)が共同で発表したレポート『Our Renewable Future: A Plan for People and Nature』(2025年3月)は、自然と人々に利益をもたらす再エネ移行の設計指針を提示する文書だが、そのなかで異例ともいえるほど明確に「disinformation(偽情報)」という語を繰り返し用いている。
これは、再エネの開発現場で実際に起きている生態系への影響の話とは別次元の、「情報空間での自然保護の語られ方」に対する警告である。
「自然を守れ」が再エネ反対運動に転化する構図
レポートがとりわけ強調しているのは、洋上風力に関する情報操作である。「クジラの死因は洋上風力だ」という言説が拡散される一方で、船舶衝突や気候変動そのものの影響といった構造的な要因は顧みられない。このような主張は、「根拠の薄い懸念(unfounded tales)」と「正当なリスク評価(real concerns)」を意図的に混ぜ合わせることで、再エネそのものへの不信を生み出す。
こうしたナラティブは、レポートによれば、化石燃料業界などの既得権益に支援されたキャンペーンの一部として組織的に流通している。その目的は単純で、脱炭素移行の遅延である。言い換えれば、「自然保護を理由に自然破壊の原因を維持する」という倒錯した構図が成立している。
偽情報はなぜ有効に機能してしまうのか
この種の偽情報が説得力を持つのは、それがまったくの嘘ではないからである。実際に、再エネ開発のなかには不適切な立地選定や環境影響評価の不足によって、生態系を破壊した例がある。つまり、偽情報は実在する制度的欠陥を利用して信憑性を獲得している。
WWFとACFのレポートはこの点を正面から認めたうえで、次のように述べている:
「プロジェクトが重要な生息地に配置されたり、地域との協議を欠いたりすると、公共の信頼が損なわれ、移行そのものが損なわれる」
つまり、偽情報の温床となるのは、不透明で排他的な制度設計そのものである。そして、対抗すべきは「誤解を正すこと」ではなく、「誤解が成立し得ない仕組みを作ること」だとする。
偽情報に抗う手段としての制度設計
レポートが提示する対策は、ファクトチェックではない。むしろ、再エネ開発の全体を「ネイチャー・ポジティブ(自然の純増)」を基軸に再設計し、信頼のインフラを構築することで、偽情報が力を持つ余地を構造的に潰すというアプローチである。
そのために必要とされているのは:
- 高自然価値地域の「不可侵ゾーン」化
- 地域住民、特にファースト・ネーションの意思決定への実質的参加
- 開発プロジェクトごとに生物多様性の純増を義務化
- 環境影響データの共有と透明性の確保
つまり、「再エネをどうやって自然と両立させるか」という政策課題と、「偽情報がなぜ有効に機能してしまうのか」という認識論的問題を、同じ文脈のなかで扱っているのがこのレポートの特異性である。
「争点化」そのものを問う視点
このレポートを読む上で重要なのは、「再エネ vs 自然保護」という対立構造を前提にしていない点である。むしろそのような二項対立がそもそも作られたものであり、それが偽情報によって政治的に強化されているという構図を明示的に批判している。
このように、本来は共通の価値(持続可能性、地域の生存、未来世代)を目指すはずの領域が、「分断によって機能停止する」よう仕向けられていること自体が問題なのだとする立場は、いわゆる反偽情報の文脈ではまだ十分には語られていない。
情報戦としての再エネ移行
『Our Renewable Future』は、制度設計の文書であると同時に、ナラティブの再構築を試みる情報戦略の文書でもある。それは、「どのように再エネを作るか」の設計案であると同時に、「どのように自然を語るか」の提案でもある。
偽情報に関心を持つ立場から見ると、このレポートは、反論ではなく脱構築、反証ではなく再設計という態度で、情報環境への介入を試みている点で注目に値する。
偽情報への対抗は、真実を叫ぶことではなく、信頼を制度として設計することでしか成り立たない。その前提に立った文書として、このレポートは読むべきものの一つである。
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