インド・パキスタン情報戦:2025年5月紛争に見る偽情報の構造と国家対応

インド・パキスタン情報戦:2025年5月紛争に見る偽情報の構造と国家対応 情報操作

 2025年5月、インドとパキスタンの国境を巡る緊張の高まりとともに、SNS上での情報空間も急速に戦場化した。実際の軍事行動と並行して行われた「情報戦」は、偽映像、誤認拡散、心理操作、さらには国家的な対応までを巻き込む極めて複雑な構造を見せた。

 インドのシンクタンクIGPP(Institute for Governance, Policies and Politics)はこの一連の動きを報告書「Disinformation Warfare: Indo-Pak Conflict and Technology」にまとめ、国家安全保障と民主主義の交差点で展開された情報操作の実態を詳細に分析している。


ソーシャルメディアが戦場になるとき

 報告書が出発点とするのは、戦闘行為以上に深刻な影響をもたらしたソーシャルメディア上の偽情報拡散である。報告書によれば、SNSは日常的には安価で便利な情報源として利用されているが、「危機時」には誤情報の拡散速度と影響力が劇的に跳ね上がる。今回のケースでは、インド国内のアカウントによる投稿の中に、動画ゲーム映像を実戦映像として拡散するものや、5年以上前の火災・爆発映像を現在の戦闘と偽るものが多発した。

 さらに特筆すべきは、パキスタンが一年以上封鎖していたXを、印パの緊張が高まるまさにそのタイミングで解禁したことである。この動きは「国内抑制」ではなく「対外攻勢」の文脈で捉えるべきであり、情報戦の構図そのものを象徴する事例となっている。


映像の再利用と架空事件:事例集

 報告書では複数の偽情報拡散事例が詳しく整理されている。中でも注目すべきは次のようなケースである:

  • 2020年ベイルート爆発の映像が、インドへのミサイル攻撃として再投稿された
  • 2019年のMi-17墜落映像や2014年のSu-30MKI事故映像が、現在の空爆被害として誤用された
  • モスクワやジャカルタの爆発映像、アフガニスタンのテロ事件映像が、インド軍施設への攻撃と偽装された
  • 架空のインド陸軍司令官「Gen.V.K. Narayan」名義の偽文書が拡散された
  • デリー・ハート火災を「インドのムスリムによる放火」と偽る宗教対立型の偽情報が投稿された

 これらはいずれも、視覚的インパクトを用いて即時的な感情反応と誤認を誘導するものであり、AIによる自動合成ではなく、意図的な再編集・文脈の付け替えによって成立している。


MRRM:偽情報はどのように受容されるのか

 報告書の理論的枠組みは、Amazeenによる「誤情報認知・反応モデル(MRRM)」である。このモデルは、人びとが偽情報にどう接し、どう判断し、どう反応するかを以下の4段階に分けて分析する:

  1. Exposure(接触)
  2. Recognition(認知)
  3. Evaluation(評価)
  4. Response(反応)

 報告書は、このモデルを用いて、SNS上の誤情報が市民の不安や誤解を引き起こし、買いだめや行動の変化(例:ガソリン確保、現金引き出し)に直結したことを明らかにしている。興味深いのは、政府高官や政治家までもが「認知」段階で誤りを犯し、誤情報を拡散した例が記録されている点である。


国家の対応:検閲と自由のはざまで

 印政府は今回、極めて強い対応を取った。PIB Fact Checkユニットは1週間で18件以上の公式反論を行い、SNS運営企業に対して即時削除を要請。X上では8000以上のアカウントがブロックされ、その中には中国国営メディアやパキスタン政府系アカウントも含まれていた。さらにメディア機関に対しては「軍事活動のリアルタイム報道を控えるよう」直接通達が出された。

 報告書はこれを「多面的かつ同時的な国家介入」として評価する一方で、透明性の欠如や表現の自由との摩擦も指摘している。特に、何が「フェイク」と判断されたのか、その基準やプロセスが外部からは検証困難である点が、今後の制度設計上の課題となる。


プラットフォームの対応:規模・速さ・地域性の限界

 X、Meta、YouTubeといった主要プラットフォームは、政府の圧力と法的要請に応じるかたちで投稿削除やチャンネル凍結を行ったが、その対応には限界もあった。報告書は、これらの企業が「誤情報を見分ける能力」を十分に持っているわけではなく、むしろ政府やファクトチェッカーの報告に依存していたことを指摘している。

 中でも印象的なのは、Metaがインスタグラム上の宗教系ニュースページを削除した件である。これは「政府の一方的要請に従った」との批判もあり、民主主義国家における企業の責任と表現の自由との間で、ジレンマが顕在化した事例といえる。


結論:危機時における「真実」の脆さと社会的免疫

 この報告書が最も訴えているのは、「戦争の武器は銃やミサイルだけではない」という事実である。可視化された混乱、演出された映像、虚偽の声明。そうした情報操作は、人びとの心理や行動、政策決定、軍事行動にまで深く影響する。それに対抗するためには、政府・メディア・教育・技術・市民がそれぞれの立場で情報免疫力を育てる必要がある。

 報告書は具体的な教育施策やプラットフォーム設計、政策的フレームを多数提言しているが、その根底には「民主主義と安全保障は常に緊張関係にある」という冷静な現実認識がある。特定の対応策を是とするのではなく、情報戦に備えるための「重層的・適応的なエコシステム」の必要性が示されている。

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