中国・パキスタン経済回廊(CPEC)は、中国の「一帯一路」構想の旗艦事業として2013年に始動し、パキスタン国内のエネルギー不足やインフラ欠如を解消するための大規模な投資プロジェクトである。道路、鉄道、港湾、エネルギー施設、そして産業特区が一体的に整備され、パキスタンの経済成長に年間2~2.5%の押し上げ効果をもたらすと予測されている。だが、その進展は常に「偽情報」によって揺さぶられてきた。
イスラマバード拠点の「Fake News Watchdog(FNW)」が2025年に公表したレポート 「Fake News as Propaganda Tool Against the CPEC」 は、この問題を正面から取り上げている。内容は明らかにCPECを擁護するトーンを帯びているが、どのような偽情報が出回り、どういう影響を及ぼしているのかを具体的に整理しており、事例集として参照する価値はある。
文化を標的にした偽情報
CPECをめぐる偽情報の一つの焦点は「文化」である。宗教や言語、地域文化といった、社会的に敏感な部分を突くことで不信を広めている。
- 中国人労働者が文化を侵食する
「大量の中国人が流入し、地元の慣習や文化が失われている」という言説が流布した。しかし実際には、CPEC関連の雇用の70%以上はパキスタン人が担っており、文化交流プログラムや技能研修が積極的に実施されている。 - 学校で中国語が強制される
一部で「中国語が教育現場で必修化される」との噂が広がった。だが、実際には雇用機会を広げるためのオプション的な語学研修にすぎず、ウルドゥー語や地域言語が置き換えられる事実はない。 - 宗教価値の衝突
新疆のイスラム教徒をめぐる中国国内政策を持ち出し、「CPECでもイスラム文化が排除される」といった言説が出た。だが現場ではハラール食や礼拝施設が整備され、宗教的慣習は尊重されている。 - 周縁地域文化の周辺化
バロチスタンやギルギット・バルチスタンの文化が無視されているという批判もあった。しかしCPECには職業訓練や文化保存を目的とした地域事業も含まれている。
文化的な偽情報は、地域コミュニティの感情に訴えかけ、信頼関係を崩す効果を持つ。事実と異なっていても「文化が失われる」という懸念は拡散しやすいのが特徴だ。
経済を標的にした偽情報
経済的な不安を利用するナラティブは、投資家心理に直結するため影響が大きい。
- 「債務の罠」説
最も拡散力を持つのが「CPECは中国による債務の罠」という主張である。スリランカのハンバントタ港を引き合いに、「返済不能となればパキスタンも港を取られる」といった報道がインドや欧米メディアで流れた。しかし、CPEC関連の債務は全体の10%未満であり、多くは低利融資や投資である。 - 中国人が雇用を奪う
「中国人労働者がパキスタン人の職を奪っている」との批判も根強い。だが、公式データでは7割以上がパキスタン人雇用であり、中国人労働者は高度技術職に限られている。 - グワダル港が売却された
NDTVなどが「港を売り渡した」と報じたが、実態は40年リース契約であり、所有権はパキスタンに残っている。 - CPECは失敗した、インフレを招いた
2019年頃に「事業は停滞」「物価上昇の原因」という言説が出回ったが、同時期には電力供給改善や高速道路整備が進んでおり、効果は明確に現れている。
経済をめぐる偽情報は、数字や先例を絡めることで信憑性を装い、長く尾を引く点が特徴である。
政治を標的にした偽情報
国内の対立や国際的な不信を煽る偽情報も多数確認されている。
- 軍事プロジェクト化説
「CPECは中国の軍事基地建設の隠れ蓑だ」という主張が広まった。だが証拠はなく、事業はインフラとエネルギー開発に限定されている。 - 土地強奪説
「中国企業が地元住民の土地を強制的に奪っている」との噂もあった。実際には補償付きで法的手続きを経ており、強制性は確認されていない。 - パンジャブ優遇説
「パンジャブ州ばかりが利益を得ている」との主張も出回った。しかしCPECはシンド州のエネルギー事業、バロチスタンの港湾開発など全国的に展開している。 - 主権侵害・汚職説
「中国が経済を支配している」「資金が官僚に横領されている」といった言説も繰り返し現れた。だが体系的な腐敗の証拠は示されていない。
こうした政治的偽情報は、パキスタン国内の地域対立を煽るだけでなく、外交関係にも不要な摩擦をもたらしている。
ナラティブの持続と対応の限界
このレポートが指摘する興味深い点は、一度流布した偽情報が何度でも再利用されることだ。「債務の罠」「軍事基地化」といった象徴的なフレーズは、否定されても繰り返し蘇る。
ファクトチェックは一定の効果を持つが、ナラティブ自体を消し去ることはできない。そのため、透明性のある情報公開や現地住民との信頼関係構築が不可欠だとされる。FNWは、CPECメディアフォーラムやパキスタン・中国情報回廊などの取り組みを紹介し、正確な情報発信の強化を呼びかけている。
まとめ──紹介と注意点
このレポートは、CPECをめぐる偽情報を文化・経済・政治の三領域に分けて整理し、事例ごとに分析している点で有用である。ただし、発行主体がパキスタンに拠点を置き、CPEC推進に近い立場から書かれていることは念頭に置く必要がある。
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