欧州の偽情報対策において、ロシアが中心的な脅威アクターとして議論されてきたのは言うまでもない。しかしその陰で、ベラルーシという国家が独自の情報戦アーキテクチャを築き、国内外にハイブリッドな影響力を投射しているという事実は、意外なほど認識されてこなかった。
そうした問題意識をもとに、2025年6月、民主化勢力として亡命下にあるスヴャトラーナ・ツィハノウスカヤ陣営が発表したのが本稿で紹介する『RED PAPER: EU–Belarus Security Framework 2025』である。これは、EUの政策関係者・安全保障専門家に向けて、現体制下のベラルーシがもたらす多面的なリスク(エネルギー、軍事、情報、移民など)を体系的に示した政策提言レポートである。
本稿では、その中でもとくに偽情報・情報操作の観点に絞り、このレポートが示す構造と論点を紹介する。
情報支配の制度化:「情報縦割り体制」という名の国家構造
本レポートの中心的な指摘は、ベラルーシにおける偽情報が単なる「メッセージ操作」ではなく、国家権力の中枢に組み込まれた制度であるという点にある。
報告によれば、2019年以降、ルカシェンコ政権は「情報安全保障ドクトリン」や「国家安全保障概念」「軍事ドクトリン」などを通じて、情報空間を統治の主要対象に据えた。これらのドクトリンは、「情報主権」や「国家アイデンティティ防衛」を掲げ、外部からの言論や歴史解釈そのものを「敵対的影響」とみなす論理に貫かれている。
これを運用するのが、レポートが“情報縦割り体制(Information Vertical)”と呼ぶ構造だ。大統領府報道局が直接メディアに命令を送り、戦略研究所(BISR)がナラティブを分析・設計し、国家通信管理センター(NCOT)とbeCloudがインターネットトラフィックを制御する。国営メディア(BelTA、ONT、STVなど)とTelegram・TikTokを利用した新興プロパガンダチャンネルがこれを実行する。そこでは「検閲」「物理的遮断」「ナラティブ製造」「拡散」が制度的に一体化している。
プロパガンダの中身:ロシアと連携しつつ、自律的でもある
プロパガンダの内容には既視感がある。EU・NATOは「新たなナチズムの温床」であり、ポーランドやバルト三国は「領土的野心を持つ敵国」とされる。野党勢力は「西側の操り人形」「テロリスト」と呼ばれ、西側の人権・多様性の価値観は「道徳的退廃」として貶められる。
このあたりはロシアのナラティブと重なるが、レポートは次の点で警鐘を鳴らす。ベラルーシはロシアのメディアアセットの単なる下請けではない。むしろ、自国のレジーム存続を第一義としたナラティブを自律的に生成・運用しており、時にロシアの戦略とは異なる方向に展開している。
また、こうした偽情報は国内にとどまらない。ディアスポラを対象とした誹謗、ポーランドやリトアニアの分断を狙った偽情報、さらには移民操作と連動した心理戦的な情報流布まで、多岐にわたる。
EU制度の盲点:ベラルーシは「ロシアの一部」として見落とされている
このように、ベラルーシが独立した偽情報アクターであるにもかかわらず、EUの現在の制度的対応(DSA、EDMO、EEAS-FIMI等)は、ベラルーシの攻勢を「ロシア発」の問題として扱う傾向が強い。
その結果、ルカシェンコ政権から発信されたナラティブは、FIMI監視対象から抜け落ち、プラットフォーム側のリスク評価においても対処されないままになる。レポートはこの点を制度的欠陥として明示的に批判し、ベラルーシを「独立した脅威ベクトル」として政策的に再分類する必要があると主張する。
若者層の思想操作と情報遮断:文化的レジリエンスの侵食
レポートの中でとくに印象的なのが、若年層をめぐる記述である。情報空間の支配は教育制度にまで拡張され、国家主義的歴史観とロシア中心の言説が義務教育カリキュラムに導入されている。軍事教練の導入、KGBとの連携による「愛国教育」の展開、大学における批判的思考教育の排除。
この影響は定量的にも現れている。2023年からの1年半で、18–24歳層において「国家機関への信頼」が60%→76%に上昇、「ロシア志向」が22%→35%に上昇しているという。これは偽情報が「ナラティブ」ではなく、「社会的現実」として若者の中で定着しつつあることを示唆している。
提言:制度対応・パートナーシップ・メディア戦略の再構築
レポートは具体的かつ実務的な提言をいくつも挙げている。偽情報対策に携わる実務者にとって示唆的な点は以下の通り:
- FIMI制度上の再分類:ベラルーシをロシアとは別のアクターとして記録・監視する仕組みの導入。
- DSA第34条に基づく出自分析の強化:TikTok、YouTube、Telegramなどに対し、ベラルーシ発コンテンツのリスク報告義務化。
- 信頼あるフラッガー制度への組込み:ベラルーシ民主勢力・メディアを制度的に協力パートナーと位置づけ。
- VPN、教育支援、若者向けキャンペーンの展開:偽情報の土壌そのものに対する構造的対処。
- 反プロパガンダ素材の多言語・多形式展開:文字だけでなく、動画・インフルエンサー・ナラティブベースの対抗。
おわりに:偽情報分析のフレームワークを問い直す
この『RED PAPER』が投げかけているのは、個々の偽情報キャンペーンの分析を超えた問いである。国家が情報空間をいかに制度的に支配し、戦略的資源として運用するのか。そして、その構造に対して民主主義側がどう制度的対応を組み立てるべきか、という問いだ。
このレポートを作成したのは、2020年の不正選挙以降、亡命下で活動を続けるベラルーシ民主勢力(スヴャトラーナ・ツィハノウスカヤ陣営)である。したがって、これは政府間の安全保障文書ではなく、欧州における民主主義の回復と制度的再統合を目指す側からの政策的メッセージだという点を明確にしておきたい。
それでもなお、この文書が描き出す構図は、現代の偽情報を理解するうえで極めて示唆的である。情報支配の制度化、偽情報と教育・若者政策の結合、さらにはプロパガンダ国家が第三国の世論や社会的弱者(移民やディアスポラ)に作用する構図は、他地域においても繰り返し観察される可能性がある。
本レポートは、「偽情報とは何か」を問うのではなく、「偽情報が制度になるとはどういうことか」を問う資料として、注視に値する。
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