2024年の米大統領予備選挙において、ニューハンプシャー州の有権者に向けて、「ジョー・バイデン本人の声」で語るAI音声ロボコールが出回った。投票に行かず、代わりに民主党全国大会で意見を表明するよう促す内容だったが、声は偽物であり、バイデン陣営は直ちに否定した。通信番号は偽装され、音声はおそらく生成AIによって作られた。これが誰の指示で行われたかは現在も捜査中だが、重要なのは、こうした「投票抑制型の偽情報」が年々巧妙化しているという事実である。
この問題に対し、イェール大学のMedia Freedom and Information Access Clinic(MFIA)が2025年8月に発表したレポート『Using the Ku Klux Klan Act to Combat Election Disinformation』は、異様な方法で対抗手段を提示している。使用を提案しているのは、1871年に制定されたKu Klux Klan法(通称Klan法)である。もともとは南部での黒人有権者に対する暴力を抑止するための法律だったが、これを21世紀のSNS上の偽情報に適用しようというのだ。
冷静に考えれば、ディープフェイクのロボコールや「テキストで投票できます」といった虚偽の広告が、なぜ150年前の人種差別対策法で訴えられるのか、不条理にも思える。しかしこのレポートは、それを一切冗談ではなく、実務的手続として構成している。
Klan法と「支持・擁護条項」
焦点となるのは、Klan法のうち現行法として生き残っている42 U.S.C. § 1985(3)の「支持・擁護条項(Support-or-Advocacy Clauses)」である。この条項は、連邦候補への「支持または擁護」を妨げることを目的とした共謀に対して、民事訴訟を起こす権利を被害者に与えている。ここで言う妨害は、暴力や脅迫に限らない。故意に投票を諦めさせるような虚偽の情報──たとえば、投票日の誤案内、投票方法に関する欺瞞、あるいは候補者になりすました偽の発言──も、場合によっては妨害行為とみなすことができる。
この解釈は、選挙偽情報を民事訴訟の枠組みで捉え直すという点で極めて重要である。刑事罰を適用するには、憲法上の「表現の自由」に対する強い制約がある。だが民事法の領域では、損害の証明と因果関係があれば、より柔軟な規制が可能になる。
実際にレポートが想定している訴訟構成では、「共謀が存在し」「偽情報が配信され」「原告の権利が侵害され」「その動機が連邦候補への支持妨害であったこと」が示されれば、損害賠償や差止命令を求めることができる。さらに、1986条では「共謀の存在を知りつつ、それを防ぐ手段を持ちながら放置した者」にも責任を課すことができるとしており、これは通信事業者やプラットフォーム事業者への責任拡張も視野に入れている。
規制できない国で、どう規制するか
アメリカでは、たとえ投票妨害目的であっても、虚偽表現の多くは憲法修正第1条に守られてしまう。詐欺や脅迫とは異なり、「言っただけ」では刑事罰の対象にならない。そのため、選挙における偽情報の拡散に対して、行政的規制はほとんど機能していない。
この法的構造に風穴を開けようとするのが、Klan法の「民事的」活用である。これは国家が偽情報を禁じるのではなく、被害を受けた個人や団体が、自らの権利侵害として訴えるという構図に転換する。選挙の公正性を守るのではなく、投票を通じた自己表現の権利を侵害されたという立場から、訴訟を通じて偽情報に対抗するのである。
これは決して理想的な手段ではない。誰が訴えるか、どこまで立証できるか、賠償の実効性はあるかといった問題は山積している。しかし、行政が規制できず、立法が追いつかない現状において、司法が後退しないための最後の手段として、極めて論理的に構築されている。
これは法解釈か、制度批評か
このレポートの読後感は独特だ。一見すると法的な技巧に見える。だが裏返せば、なぜここまでして偽情報を訴える術が必要なのか、という制度批評でもある。表現の自由を極限まで保護するアメリカ的法体制のなかで、投票を欺く偽情報をすら排除できないという現実。その歪みが、Klan法という歴史遺産を通じて、浮かび上がってくる。
選挙干渉はもはや暴力ではなく、情報で行われる時代になった。だが、それに対する防衛装置は未整備のままである。その空白を埋めるために、誰も想定していなかった法律が、150年の時を経て召喚されようとしている──この状況そのものが、制度の限界と現代の脆弱さを象徴している。
このレポートは、法的論点を示すだけでなく、「表現の自由」の意味と限界を問うための鏡でもある。笑うべきか、嘆くべきか。だが一つ確かなのは、これは本気の提案である。制度の外側から制度を動かそうとする、その執念だけは、冗談では済まない。
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