Internet Sans Frontières と現地団体による KenSafeSpace coalition がまとめた“Voices at Risk: Moderating Without Stifling, Protect Without Censoring in Kenya”(2025年11月)は、ケニアの選挙周期特有の緊張をオンライン空間の観測データにもとづき分析した報告書である。2007年選挙危機以降、民族対立・政治的不信・治安機関の強権性・通信遮断が周期的に繰り返されてきたケニアでは、SNSが動員の基盤であると同時に、ヘイト、虚偽情報、ジェンダー攻撃が制御困難な形で増幅され、2024年の#RejectFinanceBill2024抗議における大規模な通信制限は、その緊張の深さを示した。KenSafeSpace coalition は2025年1〜7月にかけて129件のオンライン投稿を収集し、Harmful Speech Toolkit や Dangerous Speech の五因子分析など、構造評価に耐えうる手法を組み合わせて検証した。本稿では、報告書が示す民族政治・ジェンダー暴力・選挙偽情報・誤モデレーション・法的抑圧という複数領域を、一次資料にもとづいて密度高く再構成する。
調査手法と観測条件:文脈依存型リスクの把握
調査は Facebook、TikTok、X を中心に、1,000人以上のメンバーを持つグループまでを対象とし、英語・スワヒリ語・Sheng の三言語圏で収集された。各投稿は、プラットフォーム規約、五因子(話者、メッセージ、受け手、文脈、媒介)、およびローカルな文化的比喩に即して評価され、1件あたり2〜4時間を要する手作業の分析が行われた。報告書が強調するのは、プラットフォーム側の検索機能削減やレコメンド改変により、調査者のタイムライン自体が偏る可能性がある点で、観測対象の抽出過程が政治的・技術的要因から影響を受けるという問題である。この透明性の高さは、実証研究としての価値を大きく高めている。
民族・宗教ヘイトの観察:文化的コードを媒介にした侮蔑の再構築
観測投稿の43%を占めたのは民族・宗教に基づくヘイトスピーチであり、直接的侮蔑よりも文化的符号を用いた間接的表現が多い点が特徴的である。議員 Peter Kalerwa Salasya の投稿では、「Luos want to kill me」「Getting circumcised is a good thing; it eliminates stupidity」(2025年4月)といった表現が示され、割礼をめぐる文化的差異を知能や品性に結びつける形で侮蔑が加工されていた。割礼を行わない Luo への偏見はケニア政治で長く反復されてきたレトリックであり、政治家の発信は Dangerous Speech が指摘する「話者の権力性」を通じて、侮蔑の危険度を大きく増幅させる。
さらに、「selling Bomori to KUNO is like opening a circumcision center in Luo Nyanza」(2025年4月10日)という投稿は、Kuresoi North(KUNO)の政治文脈と Luo 地域の文化を比喩的に接続し、「文化的不適切さ」を候補者と支持層に転写する構造を持つ。こうした婉曲表現は自動検知が困難で、地域コンテクストへの理解がない限りヘイトとして識別されにくい。
宗教的動員も民族政治と接続する。ムスリム司祭が「Kafiri isichukue kiti」(不信者は席につくな)と唱える動画を共有した投稿(2025年2月9日)は、宗教的境界を政治的忠誠と結びつけ、投稿者は「2007よりひどい暴力が来る」と述べ、歴史的惨事と現在の緊張を結びつける。この種の投稿は、宗教的権威と政治的不信が組み合わさることで、暴力の可能性を“予兆”として増幅する。
ジェンダー攻撃の複合構造:性的操作・家族情報・噂の接続
女性政治家・一般女性への攻撃(26%)は、性的名誉毀損、AI加工、住所暴露(doxxing)、未成年情報の共有、事実無根の噂が層状に結びついており、オンライン暴力の複合構造が明確に表れる。ナクル郡知事 Susan Kihika に関する投稿(2025年3月26日)は、居住地として「1921 Sweetwater Lane, Prosper, Texas」と具体的住所を示し、「家賃$8,500を税金で支払っている」と根拠のない主張を添え、さらに未成年の子どもの顔写真が加工なしで掲載されていた。Facebookは未成年の特定情報の共有を禁止しているが、政治的告発形式を取る投稿は削除が遅れやすく、プライバシー侵害が政治攻撃と密接に融合していた。
AI生成による性的操作も確認された。2025年3月19日の投稿では、女性の写真に対し「AIに上着を脱がせた」というコメントと生成画像が添付され、性的侮蔑と技術的操作が結びつく形で人格を損なう行為が行われていた。Xは非合意の性的画像の共有を禁止するが、deep-nude 系の生成物は検出が難しく、政治的攻撃の一部として残存しうる。
さらに、Baringo County の女性議員 Florence Jematiah には「STIをGen Zに広めている」といった性的汚名が付与され、女性政治家の発言力を“性的に破壊する”典型パターンが確認された。これらの攻撃は、性・家族・身体・噂・AI画像が同一投稿群に束ねられ、女性の政治参加を制度的に阻害する。
選挙偽情報の観察:制度的手続きと虚偽情報の衝突
選挙関連の偽情報(29%)は、制度不信と民族政治の文脈で強く作用する。2025年4月5日の投稿では、「SMSを受けた者だけがODM代表選に参加できる」という偽メッセージが WhatsApp と Facebook で共有されたが、ODMの公式規則では代表選は投票所で実施されるため、投稿は制度手続きと明確に矛盾する。KenSafeSpace は、偽情報が制度の権威と「矛盾する形で」構築されている点を重視する。
2025年7月14日の TikTok 動画では、「IEBCがソマリ系350万人を新規登録している」という主張が拡散し、IEBCが公式に否定した。人口統計上も不可能であり、民族的不信を刺激する目的を明確にもつ。TikTokの選挙規約では誤誘導情報は禁止されているが、動画は残存しており、モデレーションの遅延が不信を増幅する。
また、Wajir County の議員が「必要であれば選挙を盗むことは手続きとして当然」と述べたとされる投稿も観測され、制度的正当性そのものを揺るがす言説が政治家自身の発言として流通していた。制度不信と偽情報が双方向に補強し合う構造である。
誤モデレーションの危険:風刺・人権監視の不可視化
報告書が独自に強調するのは、削除不足だけでなく削除過剰(false positives)が民主主義的監視を損なう点である。2025年5月30日の投稿では、タンザニア大統領 Samia Suluhu を AI で風刺した画像が共有されていたが、AI生成物に対する過剰規制の文脈では風刺・批判と偽情報が区別されず、政治的表現が抑圧される危険性がある。
さらに、Belgut 選出議員 Nelson Koech が「警察はデモ隊を撃って殺せ」と述べたとされる発言を報道する動画(2025年7月10日)は、本来人権監視のために不可欠であるが、「暴力表現を含む」という機械的基準で削除対象となれば、権力者の問題発言を可視化する社会的機能が失われる。この領域は、削除強化が必ずしも安全性向上につながらない典型例である。
法制度の分析:合法的な抑圧としての機能
報告書は、ケニアの複数の法規制がオンライン統制に利用される構造を整理している。CMCA(Computer Misuse & Cybercrimes Act)は虚偽情報を犯罪化し、ジャーナリストや活動家への捜査に利用され、2025年改正案では国家機関NC4が裁判所の承認なしにサイト遮断を行う権限を持つ。NCIC(National Cohesion and Integration Commission)はヘイトスピーチ担当だが、有罪化はほぼ不可能な一方で、捜査呼び出しを通じて批判者への威圧に使われる。KICA(Kenya Information and Communications Act)は通信当局にデモ規制と通信遮断の根拠を与え、抗議時の情報流通を制限しうる。これらは「偽情報対策」の名目で動作しつつ、実務では政治批判の封じ込めに用いられる。
まとめ:削除でも放置でもなく、文脈を理解する調整の必要性
KenSafeSpace の調査は、民族性・宗教・ジェンダー・選挙制度・法的権限・プラットフォーム規約という複数の領域が、同じデジタル空間で互いに干渉しながらリスクを構築していることを示す。特に、文化的コードを利用したヘイトや女性への複合的攻撃、制度不信を前提とした選挙偽情報は、削除の強化だけでは対処できず、反対に誤削除は政治的監視を妨げる。必要なのは、ローカル言語・文化的比喩・政治権力の構造を理解したモデレーションであり、市民社会との協働、ジェンダー暴力の優先処理、誤削除の透明化といった多面的調整である。ケニアの事例は、世界的なプラットフォーム規制議論においても、削除と表現保護の両立がいかに文脈依存であるかを示す実証例として重要である。

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