森林火災からディープフェイクまで――豪州人権委員会が示す「気候偽情報」対策の原則

森林火災からディープフェイクまで――豪州人権委員会が示す「気候偽情報」対策の原則 言論の自由

 豪州人権委員会(AHRC)が2025年9月に上院特別委員会へ提出した意見書「Information Integrity on Climate Change and Energy」は、気候とエネルギーをめぐる偽・誤情報を「人権の問題」として扱っている。偽情報は政策決定を遅らせ、社会的合意を揺るがし、最終的には清浄で健康な環境を享受する権利を損なう。だからこそ規制は必要だが、同時に「表現の自由」を守らなければならない――これが全体を貫く立場だ。
 委員会は国際規約(ICCPR19条)を引きながら、規制が正当な異論を抑圧しないように注意を促す。「権利と制限の関係が逆転してはならない」という警告は、この意見書の核にある。


科学と制度への信頼を蝕む偽・誤情報

 最初に取り上げられるのは、偽情報が科学機関・政府・メディアへの信頼を崩すという問題だ。豪州成人の約6割が「直近1週間に偽情報を見た」と答えた調査結果を引用し、こうした常態化が気候政策の支持を削ぎ、社会的分断を生んでいると指摘する。
 災害時の脆弱性も大きい。緊急時には政府の広報が人命保護を支えるが、そこに誤情報が混じれば避難や防災の判断自体が揺らぐ。2019–20年のブラックサマー森林火災では「放火が原因だ」とするナラティブがTwitterで拡散し、#ArsonEmergencyが流行した。実際には気候変動が火災拡大の背景にあったが、この言説が「気候政策不要論」に結びつき、議論をすり替えたとされる。提出書面はこれをボットやトロールを組み合わせた協調的不正行為(CIB)の典型と見ている。


規制設計は「政府免責」ではない

 次に委員会が強調するのは、規制の設計そのものが歪む危険性だ。2023年に公表された法案素案では「政府が承認した情報は偽・誤情報には当たらない」とする条項が盛り込まれていた。つまり、政府が誤った情報を流しても規制対象外になり、市民や野党の発言だけが制御される非対称構造だった。
 翌年の改訂で一部修正はされたものの、今度は「環境への害」という文言が削除され、気候分野が軽視される形になった。最終的に法案は成立しなかったが、委員会はこれを教訓に「規制は必ず人権法に基づき、恣意的に運用されない仕組みでなければならない」と訴えている。


外国干渉という安全保障リスク

 意見書はまた、偽情報を「安全保障」の問題としても位置づける。豪州情報機関ASIOは、外国干渉やスパイ活動が「テロに代わり最大の脅威」になったと明言している。気候やエネルギーの議題もその標的だ。
 選挙や国民投票の時期には、国外アクターによる分断工作が強まり、気候科学を否定したり再エネ政策の正統性を揺さぶったりする言説が広まる。気候問題は環境分野にとどまらず、民主主義の根幹を揺るがす地政学的リスクとしても扱われている。


透明性なくして規制なし

 委員会は「測れないものは直せない」と繰り返す。偽情報の有病率や拡散状況を把握できなければ、規制の効果も検証できないからだ。2023年素案ではプラットフォームに有病率報告を義務づける条文があったが、議論の過程で削除された。さらに近年はプラットフォームが研究者へのデータ提供を制限する傾向が強まり、現状では偽情報がどれほど広がっているかすら測りにくい。
 委員会は、透明性を制度的に担保しなければ規制の正当性は成り立たないと主張する。データアクセスと説明責任は、言論の自由を守る「セーフガード」でもあるのだ。


ディープフェイクという未来の脅威

 最後に論じられるのが、AI生成物による偽情報だ。合成動画は急速に高度化し、OpenAIのSoraやGoogleのVEO 3のように、誰でも低コストでリアルな映像を作れるようになった。これが「気候危機は誇張だ」「再エネ政策は陰謀だ」といった偽のメッセージに使われれば、議論の土台は一瞬で崩れる。
 委員会はこうしたディープフェイクを「高リスク用途」としてAI法で厳格に規制すべきだと勧告している。単なる未来予測ではなく、現実の技術進展を踏まえた警鐘として描かれている点に重みがある。


五つの勧告

 意見書の結論は、五つの勧告に整理される。

  1. 独立研究の支援:有病率や人権影響を測定する枠組みを整える
  2. 人権法に基づく規制:表現の自由を損なわない制度設計
  3. プラットフォーム透明性の強化:データアクセスと説明責任の担保
  4. デジタル・リテラシー投資:アルゴリズム理解を含む教育強化
  5. AI法の立法化:ディープフェイクなど高リスク用途の規制

まとめ

 AHRCの意見書は、「規制は必要だが自由を守る規制でなければならない」という逆説を起点に、信頼の侵食、法案設計の矛盾、外国干渉、透明性の欠如、ディープフェイクの脅威を順に論じる。その一つひとつを補強する具体例が盛り込まれ、抽象論だけでは見えにくい問題の輪郭を浮かび上がらせている。
 他の国際報告書と同じ枠組みを共有しつつも、国内災害・法制度・安全保障・AI技術といった局面に具体的に踏み込むことで、意見書ならではの重みを持たせている点が本書の特徴である。

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